「以前は気づかなかったこと」

使徒言行録 3章1~10節

説教 栗原 健 兄

 エルサレム神殿の 「美しい門」の前で、足の不自由な男が物乞いをしていました。壮麗な門の前に、「神のかたち」として創られたはずの人間が惨めに置かれているコントラストは、胸が痛むものがあります。ペトロとヨハネは彼に目を留めました。もしかすると、2人は以前、イエスと共に神殿に来た時にもこの男を見 ていたかも知れません。しかし、その時は、彼ら弟子たちは神殿の豪華さばかりに気を取られていました(マルコによる福音書13章1節)。実際、弟子たちは障害ある人に対して無神経な態度をとることすらあったようです(ヨハネによる福音書9章2節)。その後、主イエスの十字架と復活、聖霊降臨を経て神の愛の深さを知った2人は、今度は男の存在に気が付きます。

このことは大事なことを示しているのではないでしょうか。主の愛を知った者は、他者もまた主に愛された兄弟であることを見出し、彼らの痛みや悲しみに目を向けるようになります。社会のうわべの華やかさよりも、その下で苦しんでいる人の声に気がつくようになるのです。ペトロは、「右手を取って」男を立ち上がらせました(7節)。人間と人間のつながりが生まれたことが感じられるシーンです。その後、男は「神を賛美し、2人と一緒に境内に入って行った」(8節)と あります。私たちは、独りで清らかになって神の国の門をくぐるのではありません。常に他者と共に入って行きます。このことを覚えましょう。

2020年8月23日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「わたしは神・敗戦と教団」

イザヤ書45章20~25節

説教 原 誠 牧師

 75年前の1945年8月15日の敗戦を、わたしたちが属している教団は、牧師は、信徒は、どのように受け止めたのか資料を通して振り返ってみる。教団は宗教団体法によって1941年6月に成立した。戦時下の教団は、一面は教会であったが他面は国家の行政の一端を担う存在であった。その有り様の一端は、総理者の伊勢神宮参拝、戦時布教指針を令達、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」の発表、軍用機献納などが挙げられる。45年8月16日に予定されていた戦意昂揚音楽礼拝は15日朝に中止となり、8月28日開催の第13回戦時宗教報国会常務理事会は、教団統理者の令達を全教会に発送した。

 昭和二十年八月ニ十八日/日本基督教団統理者  富田満/各教区支教区長/各教会主管者各位/「(前略)本教団ノ教師及ビ信徒ハ此ノ際聖旨ヲ奉戴シ国体護持の一念ニ徹シ、愈々信仰ニ励ミ、総力ヲ将来ノ国力再興ニ傾ケ、以テ聖慮ニ応へ奉ラザルベカラズ。我等ハ先ヅ事茲ニ至リタルハ畢竟我等ノ匪躬ノ誠足ラズ報国ノ力乏シキニ因リシコトヲ深刻ニ反省懺悔シ、今後ノ辿ルベキ荊棘ノ道ヲ忍苦精進以テ新日本ノ精神的基礎ニ貢献センコトヲ厳カニ誓フベシ。特ニ宗教報国ヲ任トスル我等ハ左記ニ留意シ、信徒ノ教導並ニ一般国民ノ教化ニ万全ヲ期スベシ。(以下略)」

 ここで述べられている第一の主題は「国体護持」であり、次いで戦争に負けたのはわれわれキリスト者の「報国ノ力」が乏かったことにあり、これに対してわれわれは「深刻ニ反省懺悔」しなければならない、というものであった。

 ここには平和が回復する、自由が回復する、そしてこれからは信仰に基づいた歩みができる、という期待を込めた解放感ではなく、当時の言い方でいえば「皇国臣民」としてのとらえ方が第一にあった、ということになる。われわれ日本の歴史とその社会にあるキリスト者、そしてその信仰ということが、何にあるか、何であったか、思いを巡らせる必要がある。我々の信仰とは、どのような信仰であったか。またなによりも神の前に戦時中の教会の歩みについて懺悔する信仰をかいま見ることはできない。

 この問に対する答えは、単純ではないだろう。しかし、一人の信仰者として、避けては通れない問であることはわかる。戦時下に我々キリスト者は、非国民、ヤソと言われて被害者だったという言い方では説明しようもない、大きな隙間、開きがある。

 それが75年前のわたしたちの教会の信仰、わたしたち信仰の先達たちの信仰であった。日本の敗戦とわたしたちの信仰を、歴史をひもときながら、わたしたちの今の信仰を考えたい。聖書が示す「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。」という言葉、あるいは十戒の第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という教えを、今、歴史のなかでかみしめる必要がある。

2020年8月16日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「罪と赦し」

ローマの信徒への手紙7章15~25節
フィリピの信徒への手紙2章6~8節

説教 北 博 兄

 キリスト教の罪は、アウグスティヌスが打ち立てた原罪の教理によれば、人間の本性に必然的に備わっているものである。罪は無意識の世界と似てはいないか。無意識の世界は実体として実証的に把握することはできないが、実感としてはまぎれもなく自分の一部として存在している。罪もこれと同じではないだろうか。自分の中には他者への献身的で自己犠牲的な愛といった崇高な指向性と同時に、潜在的には憎悪や嫉妬といった暴力的な指向性も確実に存在しており、どちらも正義感と結びついて顕在化する。そしてどうもこれはどの人間にも共通しており、そう言った二重の指向性が社会をも動かしているらしい。罪は実体的に把握できるものではない。それでも罪は、確実に存在する。それは個人的にも社会的にも悪という形で表面化し、個々の悪を通して言わば状況証拠的に認識できる。

 それではどうやって罪と向き合うべきか。様々な差別や迫害、暴力、不正、それに環境破壊、これは皆目には見えない罪のなせるわざであり、社会の問題であると同時に、根本的にはその元凶である自分自身の問題であり、課題である。多くの人々と力を合わせて、罪の表れである社会悪と一つ一つ戦っていく中で、自分自身の罪とも向き合うことになるのではないだろうか。

 キリストは私達の罪のために今も十字架上で血を流し続けており、差別や暴力の犠牲者という形を取って、日々私達と出会われている。

平和聖日「スーチーさんの国のキリスト教 」

ローマの信徒への手紙15章7~13節

説教 原 誠 牧師

 今日は教団の定めによって「平和聖日」として礼拝を守る。

 わたしは16年前の2004年の正月を、ミャンマー(ビルマ)で迎えた。それはビルマにあるミャンマー・カレン・バプテスト・コンベンションの特別な集会に出席するためであった。この教会の信徒の数は100万人で、ミャンマーで最大の教会だ。この年はミャンマーのカレン族で最初に洗礼を受けてクリスチャンとなったコー・ター・ビューの175年という年、またカレン語の聖書が翻訳出版されて150年、そしてこの教団の87回目の総会という記念の年であった。わたしはタイのカレン族の友人たちと共にこの集会に出席することができた。参加者の数は15,000人をくだらない。

 開会礼拝のとき、私は外国からのお客さんとして紹介されて挨拶することを求められた。私は大要、以下のように述べた。

 「カレンのクリスチャンの皆さんにとって重要な会議に出席することができて感謝しています。わたしの父は今も生きていますが牧師でした。神学校を卒業し短期間、教会の牧師として働いたあと、日本軍は彼を徴兵して日本陸軍の兵士となりました。そしてあなたの国、ビルマに来ました。多くの日本兵があなたの国で戦い、そして死にましたが、戦争が終わったあと、彼は無事に日本にもどり、また牧師として働き始め、結婚して私が生まれました。私は父の姿、生涯から多くのことを学びました。歴史を学びました。そして日本兵のみならず、じつに多くのビルマの人々、カレンの人々が殺されたことを知っています。ですからわたしはひとりの日本人として、日本人のクリスチャンとして、日本人の牧師として、また日本の神学校の教師のひとりとして、皆様に心からの謝罪をいたします」というものであった。その後、総幹事のオナー・ニョ牧師を始め、多くの人々から握手を求められた。

 ミャンマーには多くの少数民族がおり、そのなかには親英派も独立を求める反英派もいた。そして日本軍侵攻後には、同様に親日派であったものと反日派であったもの、そして戦後のビルマの独立以後はビルマの独立を維持しようとする立場と、他方ビルマからの分離独立を求めて戦い続ける、というように歴史のなかで民族ごとの立場、あるいは仏教、アニミズム、キリスト教というように、宗教によっても、また集落によっても、それは均一ではなく、多くの要素が複雑に絡み合ってきた。キリスト教徒が多かったカレン、カチン、チン族の人々は、日本軍による統治のこの時代に親英派とみなされて多くの村が破壊され、住民が殺された。

 事柄は、戦争か平和か、どちらがいいか、というような単純な二者択一ではなく、生きた現実のさまざまな要因によって、個人としては抗いようもない状況のなかに追い込められて、望む形でなく望まない形のなかに置かれて翻弄される。

 わたしたちが生きているこの現実のなかで、何が起こり、何が問われていることなのか、わたしたちの信仰の目で、信仰の聖霊の導きが何を示しているのか、求め続けていきたい。

「メシアが来る」

ダニエル書7章13-14節
マルコによる福音書14章61-65節

説教 北 博 兄

 メシアとは、旧約聖書のヘブライ語で「油注がれた者」という意味である。古代イスラエルにおいて、ある人物がクーデターかそれに近い方法で王となるよう命じられる時、象徴行為としてその人物の頭に油が注がれた。閉塞状況を武力で打破し、正義をもたらすメシアが待望された。ダニエル書7章はユダヤ教に対する大迫害の中で書かれ、天の雲と共に現れる「人の子のような者」の正体は、将来への期待また問いとして残された。
 イエスが宣教活動を開始するのは、ローマの支配からの解放者メシアを待望する空気の中であった。ところがイエスは、期待に反してあっけなく逮捕され、十字架刑に処せられて息絶えてしまう。弟子達は皆イエス逮捕の時点で逃げ去ってしまう。ところがこの頃から、弟子達の間で「イエスは甦った」という噂が広まり始める。「甦った」ということの最も深い意義は、十字架刑という非業の死を遂げたイエスが神に肯定されたということである。弟子達は、イエスの十字架上の死がイザヤ書53章の預言の成就であり、苦難の僕こそ真のメシアの姿であると確信し、「イエスこそメシアである」と言い始める。メシアはギリシア語でキリストであり、彼らはローマ世界で「イエスこそキリスト」と告白するようになり、キリスト者と呼ばれるようになった。従って、教会は十字架の死を遂げたイエスをキリストと告白する者達の群れである。しかしそれは、いばらの道の始まりでもある。私達は再臨の主を待ち望みながら、今を耐え忍びつつ待望の生を生きるのである。

2020年7月26日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「福音の力-教会の奇跡」

ローマの信徒への手紙12章9~18節

説教 原 誠 牧師

 教会は奇跡を起こす。神の言葉は、何者によっても制約されない。それをわたしはラオスのヴィエンチャンの教会で見た。

 ベトナム戦争後に成立したラオス人民民主共和国は共産党一党独裁の国で、人口が約700万人で国民の60パーセントは上座部仏教の信徒だ。少数山岳民族のなかにキリスト教徒がいたが、多くはベトナム戦争時代にアメリカ軍の傭兵となって軍事的に利用された。戦後、共産党政権は仏教を含めて宗教活動を禁止し、共産主義を嫌うキリスト教徒を含む多くの人びとが共産主義を嫌って国外に脱出した。17人いた牧師もそうだ。一人残った牧師は刑務所に入れられた。

 ヴィエンチャンの教会のカンペーン牧師は、一人残って刑務所に入れられた牧師の甥である。礼拝ではタイ聖書協会がラオ語の聖書を出版したものを贈られて朗読し、讃美歌はOHPを用いてラオ語でラオのメロディで歌われる。わたしが「教会の奇跡」というのは、驚くべきことにこの状況のなかで、毎年5000人が受洗してクリスチャンになっている、ということなのだ。一度、壊滅した教会が再生している。

 教会のなかでしか活動(礼拝)を認められない状況のなかで、信徒たちは日々の暮らしの只中で、地域の知人・友人に伝道し、教会に連れてくる。信徒が地域のリーダーとなっている。その礼拝は聖霊に満ちたものであった。わたしが言葉を交わした一人の信徒は ラオス国立大学の教授で共産党員であって教会の信徒リーダーとなっていた。

 カンペーン牧師の話によると、最貧国のひとつであるラオスでも家庭内暴力、飲酒、DVがあるものの仏教寺院は人びとの日々の暮らしの現実に対してメッセージをもたない、人びとが福音を求めていると。だから教会は「慰め」「癒し」「希望」の説教を語るのだと。そして教会の重要なプログラムは礼拝後の「仲間の連帯」(フレンドシップ・ランチョン)だという。 社会でのキリスト教活動が公認されていないなかでアメリカのキリスト教団体はラオス人の牧師をダミーで派遣し、NGOの活動として子ども、母親、保健衛生などの活動を展開している。カンペーン牧師は「信徒が信徒を生むのだ」という。 わたしが冗談ぽく「羊飼いは羊を生めない、羊が羊を生む」というと、その通りだといった。一度、壊滅状況に置かれたラオスの教会はよみがえった。

 ラオスにおいて教育レベル、経済状況、政治の制度は厳然としてあるものの、それらを超えて福音は生きて、その出来事が実現していた。2度目の2018年には、以前にあった会堂は火事で消失したが以前にも増して大きな新しい会堂が完成しており、さらに新しい教会の建設がすすめられているという。 福音の力は、教会に奇跡を生み出す。ここにわれわれの信仰がある。

2020年7月19日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「キリストの受難(1)」

マタイによる福音書26章 1~13節

説教 伊藤 香美子 姉

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため出されていた「緊急事態宣言」が解除されて、約1カ月半が経ちましたが、まだまだ気を緩めることなく、第二波の感染拡大が起きないように、充分注意して生活しなければなりません。あの宣言のもとで、私たちは日常生活のいろいろな面で自粛を要請されました。また、旅行や様々な文化活動やスポーツ大会等が中止になる、もしくは延期になるという残念な経験もしました。あの時、私にとって非常に残念だったことは、5月5日に予定されていた、私の大好きなバッハの信仰告白ともいうべき「マタイ受難曲」(マタイ26:1~27:66に記された「イエスを殺す計画」から「イエスの埋葬」までをテキストにして作曲された)の演奏会が来年に延期されたことです。この曲の演奏会は、私の知る限り、毎年この時期に東京等で開催されていますので、来年に延期とは今年は中止ということで、毎年楽しみにしていただけに、とても残念でした。

 しかし、このように予定されていたことが中止、または延期になるという状況は、あの宣言が解除された今も続いていますし、海外においても同様です。私は昨年、後期高齢者になりましたので、今年の8月に予定されていたドイツ旅行を、最後のチャンスになるかもしれないということもあって、とても楽しみにしていました。ところが、この旅行も2年後に延期になりました。しかし、中止ではなくて2年後の延期で、「よかった!」と心の底から喜びました。その理由は、この旅行はドイツのオーバーアマガウという村(アルプス山麓にある小さな村)で、10年に一度上演される「キリスト受難劇」を鑑賞するのが主な目的の旅行だからです。これが今回中止になって、次の上演が10年後の2030年ということになれば、その時、私はまだ生きていたとしても、もう86歳ですから、オーバーアマガウに行って、この「キリスト受難劇」を鑑賞するのは恐らく無理でしょう。ですから「2年後に延期」で本当によかったと思いました。2年後ならまだ大丈夫、自信が有ります。

 実は、10年前の2010年に、私はオーバーアマガウに行ってこの「キリスト受難劇」を初めて鑑賞して、とても感動しました。そこで、また10年後、すなわち2020年の今年、ぜひもう一度鑑賞したいと願いながら、それを楽しみに、この10年間を過ごしてきたといっても過言ではありません。

 オーバーアマガウの「キリスト受難劇」は今からおよそ400年前、1634年に始まりました。その前年の1633年に、ペストがヨーロッパ全域で猛威をふるい、何十万人もの犠牲者が出ました。まさに今のコロナのようです。ちなみにコロナの犠牲者は昨日の7月11日で、554,989人と新聞に載っていました。当時のヨーロッパでは人々はペストをどんなに恐れたことでしょう。オーバーアマガウの村民は、ペストが村に蔓延すれば大勢の犠牲者が出て、村が絶滅してしまうのを恐れて、そうならないように神様に祈りました。「神様、もしペストによって村が絶滅することから救ってくださるなら、感謝の印として、私たちの主イエス・キリストの受難劇を今より世の終わりに至るまで、10年毎に上演いたします。」するとこの日を境として、ペストによる犠牲者は、全くいなくなったと、村の年代記に記されています。そして翌年の1634年のペンテコステに、村民は「キリスト受難劇」を初めて上演しました。それが今日まで途絶えることなく続いていて、1680年からは西暦で終わりが0になる年毎に上演しています。

 私が鑑賞した10年前の2010年の記録によりますと、上演期間は5月15日から10月3日まで、上演回数は102回、1回の上演時間は約5時間、劇の参加者の合計は約2,150名(すべて村民で、村の人口の半数)でした。

 「科学の進歩と共に信仰は廃れる」と言われて久しい中、純朴な信仰に生きるオーバーアマガウの村民の信仰告白ともいえる「キリスト受難劇」は、信仰がもたらすまことの希望を与えてくれます。私は2年後を期待して待ちながら、日々の信仰生活に励みたいと思います。 キリストの受難は私たちの信仰の原点であり、受難曲と受難劇は私たちに信仰の奥義を深くかつ分かりやすく悟らせてくれるものです。

2020年7月12日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「主は羊飼い」

詩編23編  1~6節

説教 原 誠 牧師

 困難な状況のなかで7月を迎えた。日常と非日常、当たり前とそうでない状況の日々が続く。そして事柄は凝縮して、濃密に、弱さ、弱者にしわ寄せされていくことが明らかとなってきた。そのなかで、教会とは、信仰とは、ということにわたしたちは集中する。
 わたしはこれまで30年間以上、学生と一緒にタイ・スタディ・ツアーを行ってきた。そのなかのひとつのことを紹介する。太平洋戦争下のタイの捕虜収容所のなかで生まれた教会のことだ。太平洋戦争中、日本軍はタイとビルマ(現在のミャンマー)のジャングルに鉄道を建設した。この工事に連合軍の捕虜約3万人などがかかわった。現在、当時の収容所を再現した博物館がある。竹と藁でできたものでその名前はJEATHミュージアムという。DEATH (死)に引っかけたものだ。その意味はジャパン、イングランド、オーストラリア、タイ、ホーランドだ。
 このなかを生き延びたゴードンというイギリス陸軍の将校が書き残した『死の谷を過ぎて-クワイ河収容所』という本がある。彼は将校となりシンガポールに派遣されて日本軍につかまり、ここに送り込まれた。過酷な労働、不足する食料、医薬品。熱帯での伝染病、加えて捕虜のなかでの人間関係など、一言でいえば文字通り極限状況のなかに置かれた。そして、追い詰められて人間の本質が浮き彫りになっていく。
 そのなかでゴードンは、驚くべきことを報告している。収容所のなかで教会が生まれたいうことだ。そのなかで聖書を読み学ぶグループが生まれた。このグループのリーダーとなった。参加したのはかつてメソジィスト、バプテスト、監督、長老、組合教会に属していた信徒も無神論者もいた。もちろん自由参加だ。彼は記している。
「教会というものを定義してみると、私たち大方の見方では、次の三種の教会があることになる。まず第一。規則、儀式、書物、長い座席、説教壇、大理石、尖塔があって成り立つ教会。次に、教義要綱や教義問答集や神学教授からなる教会がある。最後に、霊の教会がある。この教会は、すなわち神の愛の働きかけに対する喜びの応答である。その応答として存在する教会である。その教会は、世俗世界からその外側へ呼び出されて、しかも世俗世界の中にあって生きるようその内側に送りこまれて、存在する教会である。そこにあるのは神聖な人間キリストがそしてその子らが存在している雰囲気である。キリストの愛があるところならどこにでも存在するという教会が霊の教会である。私たちのは霊の教会であった。この教会が捕虜収容所に対して生命を与え、収容所と単なるひとの群集-恐怖におののく個人の群!を、控え目に言っても大きく変革させていた中心な目である。」(要約)
 この教会の礼拝で一番よく歌われた讃美歌が、「主はわがかいぬし」だった。
 彼は生き延びてイギリスにもどり、その後、アメリカのプリンストン大学神学部で神学を学び、牧師となった。
 わたしたちの信仰は、今、圧倒的に困難ななかにあって聖書の言葉が「再読」されて、わたしたちの教会が、信仰がある、ということを知りたい。

「良い土地」

マルコによる福音書 4章1~9節

説教 原 誠 牧師

 日本基督教団は79年前の1941年6月24日に創立した。その創立の事情の経緯について知ることは大切だ。日本の教会の創立当初は「公会」という無教派の教会として出発したが、まもなく教派の教会となった。日本政府はキリスト教を歓迎したのではなく、1873年、「黙認」したのだった。しかし宣教師たちはこれを「解禁」と理解して、全国各地で教会、学校の設立や医療活動などを開始した。

 明治期後半になって、日本に産業社会化が進行してくると、政府は社会不安の解消のために、神道・仏教・キリスト教の代表者を集めて、それぞれの宗教の特性を生かして国民精神の向上に寄与してほしいと懇談した。キリスト教は政府から期待される存在となったことを喜んだ。(「三教会同」)さらに政府は宗教法案を上程したが廃案となった。これは宗教教師の国家資格を求めるもので、信教の自由を侵すという理由で浄土真宗と日本基督教会の強力な反対によるものであった。

 しかし15年戦争の時代に入ってからの1939年に宗教団体法が上程されたときには、キリスト教世界には全く反対の声は上がらず、逆に賛成する人たちもあり、これが教団の創立となった。その時代背景を簡単に振り返ってみると、1928年、治安維持法の改正、特別高等警察の設置、31年満州事変、33年、日本は国際連盟を脱退、37年に日中戦争の開始、38年は国家総動員法が成立、という時代であった。今度の法案はそれぞれの宗教は宗教教団をいわば準公務員の形で統率し、宗教教団の財産は無税とする、というものであった。

 太平洋戦争の時代の教団については説明する時間がない。

 1945年10月、GHQは治安維持法の廃止、特高警察の罷免を指示し、12月28日に宗教団体法も廃止となった。宗教団体法は、弾圧法、統制法だったからだ。

 その後、法的規制がなくなったこともあって、教団からバプテスト、ルーテルなどの教会が離脱して行った。しかし主要な教派であった旧日本基督教会、旧メソヂスト教会、旧組合教会、旧ホーリネスの流れにある教会は、教団を形成していくことになる。そして、今年、教団創立79年の歴史を刻んでいる。教団の成立は負の歴史から始まった。

 聖書が告げる「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもな」ることとはどのようなことか、歴史をふまえつつその問に応える教会でありたい。イエス・キリストへの信仰は、それぞれの土地、文化のなかにありながらも、そのなかで播かれた種は必ず育つのだから。

2020年6月28日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「同伴者である聖霊」

使徒言行録16章6-10節

説教 栗原 健 兄

 聖霊降臨日(ペンテコステ)から3週間が経ちました。今日は、聖霊の働きのことを考えてみましょう。

 19世紀フランスの司祭J・M・ヴィアンネ(1786年-1859年)は、聖霊のことをこうたとえています。「ある王が、家来を旅に出すことになった。王は自分の大臣を呼び寄せると、こう命じた。『私の家臣が旅に出る。あなたは彼に同行し、彼が使命を果たせるようにせよ。旅が終わった時には、必ず彼を無事に私のもとへ連れ帰るように。』」 これは確かに聖霊の働きをよく描いています。私たちの人生の同伴者、導き手として聖霊が与えられているのです。

 今日の聖書箇所は、パウロの第2回宣教旅行(聖書巻末地図8)で起きたことを記しています。アジア州へと向かいかけたパウロは次々に聖霊に阻まれ、さ迷うように旅を続けた後、幻を見てマケドニアに行きます。ヨーロッパにキリスト教が伝わった歴史的場面とされていますが、その前にパウロは、混乱しながら歩むストレスの多い旅をしたのです。

 私たちは、迷いが無くなって自分の道が見える、物事がうまく進むことを聖霊の導きと考えるかも知れません。しかし、パウロのように道に迷うこと、無駄にしか思えないような体験をすることも聖霊の導きの一部、道のりの一部なのです。自分の思惑通りに進まないからこそ「恵み」が働くのですね。必ず私たちを神様のもとに連れ帰ってくれる聖霊が共に旅してくれます。勇気をもって進んで行きましょう。

2020年6月21日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者