「まことの礼拝とは?」

創世記22章1~14節
ローマの信徒への手紙12章1~2節

説教 北 博 兄

 ローマ12:1でパウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と勧めているのは、自分の一切を神に明け渡し、全生涯をかけて神に仕えなさい、という意味である。そしてこれこそが、まことの霊的な礼拝である。

 まことの礼拝とは生活全体において神に仕えることである。そして教会とは、そのような意味で神に仕える者達の群れである。私達は通常日曜日ごとに会堂に集い、共同の礼拝を行い、お互いを励まし合い、それぞれの生活の場へと散らされる。そしてそれぞれの生活の場で人に仕え、それを通じて神に仕える。このすべてが礼拝なのであって、会堂で行なわれる共同の礼拝だけが特別の聖なる空間なのではない。従って、何かの事情で会堂における共同の礼拝に集えなくとも、それぞれの場で神に仕える者達の心がつながっているならば、礼拝共同体としての教会は存在する。最も重要なのは、生活全体を礼拝とし、聖なる時間、聖なる空間とすることである。生活全体を礼拝とするというのは、日々の生活において人と神に仕え、それによって自分の人生そのものを神に献げることである。私達は弱い存在であるが、日々の生活の中で常に神との出会いを求め、神によって力と希望を与えられ、日々新たにされて神に仕えていきたいものである。

2020年9月27日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「神の言葉はつながれていない-共産党が支配する国の教会」

テモテへの手紙II 2章8~13節

説教 原 誠 牧師

 今朝はベトナムの教会の歴史と現在について、そしてどのような政治状況のなかにあっても「神の言葉はつながれていない」というみ言葉の意味を知りたい。

 わたしは17年前と2年前の2度、ベトナムの教会を訪れました。ベトナムでは戦争が終結して共産党一党支配のもとにありますが、今もなお二つのプロテスタント教会が存在しています。ベトナム福音教会(南)(Evangelical Church of Viet-Nam, South)ともう一つはベトナム福音教会(北) (Evangelical Church of Viet-Nam, North)です。

 フランスの植民地であったベトナムには各地にカトリック教会があります。しかし少数ですがプロテスタントの教会がります。

 南に成立していたプロテスタント教会は15年前の状況でいえばベトナム福音教会(南)には318教会と45の伝道所、1148人の牧師23人の引退牧師がおり、644人の神学生が学んでいました。神学校の校長レ・ヴァン・ティエン博士によれば、ベトナム戦争の時代について「教会は政府に忠誠を誓い、教会として政府の政策に反対することはなかった。教会は政治に関与しなかった。政治的に教会が巻き込まれないことが愛国主義だったのであり、政治的混乱に巻き込まれることが非愛国主義だったのだ。だから教会としてはイエス・キリストの救いと福音を説き明かし、それを実践するということが基本であった。だからクリスチャンや教会は社会の中で認められる存在でした」といいます。

 しかしベトナム統一後、教会は政府によって大きな試練を受けました。礼拝を守ることは認められましたが神学校、社会福祉活動、学校、病院などはすべて政府のもとに置かれ、あるいは閉鎖されました。

 資本主義の側に立っていたと認識された人びとは再教育キャンプに送られ、厳しい困難な生活を強いられました。教会からは1000家族をこえる人々が地方に送られました。そのうちキン・テー・モイのキャンプはクリスチャンが多かったので、キャンプの中でいくつかの教会が設立され、1000をこえる礼拝所が開設されました。また200人の指導的信徒によって12万~18万の人々が信仰の指導を受けたのでした。レ・ヴァン・ティエン博士は、この状況について、端的にわたしたちは「献身、奉仕、苦難を分かち合ったからだ」と述べています。1991年に政府によって教会活動が承認されるようになりましたが、まったくの自由が与えられているわけではありません。

 ホーチミンの郊外にあるヘット・プー教会では多くの青年が出席していました。信徒数500人、受洗者は年に15人程度だといいます。個人の入信に際しては、当然、家族や周囲とトラブルが起こるので公表しないで受洗するケースや、たとえ洗礼を受けなくても心はキリスト教という青年も大勢いるといいます。 この状況のなかにあってもパウロの「しかし、神の言葉はつながれていません」という言葉が示されます。圧倒的な困難ななかにあって、それでも希望を失うことなく、慰めが与えられ、ベトナムにおいてもイエス・キリストの福音が宣べ伝えられているのです。

2020年9月20日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「キリストの受難(2)罪と恵み」

ローマの信徒への手紙 5章12~21節

説教 伊藤 香美子 姉

 キリスト教の罪とは、神様の御心(律法)に反する悪い行動と言葉と思いの全てです。私は宮城学院中学校に入学し、初めてキリスト教と出会って、罪について学んだ時、私は何と罪深い人間かを自覚させられました。そして、ただ悪い行動や言葉だけでなく、心の中の悪い思い(人を憎んだり、軽蔑したり、ねたんだり等々、言動化しなければ人には分からないもの)も罪であるなら、私のような罪人は救われないと思い込み、絶望し、長い間悩み、苦しみました。

 そして迎えた高3の受難節に、キリストの受難はまさにこの私の罪のためであったとの思いが強く迫って来て、私は迷うことなくそれまでの罪を悔い改め、イースター礼拝で洗礼を受けました。そして神様に罪を赦された恵みを心から感謝しました。

 大学では宗教学を専攻しましたが、その頃はまた新たな罪意識に悩んでいました。ところが、大学院に進学して仙台を離れ、京都で下宿生活をしていた時、素晴らしい出会いが与えられました。数年先輩のカトリック信徒の女性が、私の悩みを丁寧に聞いてくれて、彼女は「あなたのその罪を赦すために、イエス様は十字架で苦しまれたのでしょ」と優しく悟らせるように語りかけてくれました。私はそれはよく理解しているつもりでしたが、その時初めて「キリストの受難」を普遍妥当的な客観的真理(人類の罪の赦し)というよりも、私にとっての主体的真理として、即ち、この私の罪を赦し、私を真に私らしく生かしてくださる神さまの大きな恵みとして受けとめることができ、感謝で涙が溢れました。

 私たちは日々罪を重ねています。だからこそ使徒パウロの「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」の御言葉は真実です。自分の罪に絶望することなく、神様の大きな恵みに感謝して生きていきましょう。絶望は罪です。

2020年9月13日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「教団の戦争責任告白」

マタイによる福音書 5章13~16節

説教 原 誠 牧師

 わたしたちの教団は、1967年3月のイースター(復活祭)の日に「戦責告白」(正式には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」)を明らかにしました。「信仰告白」は、歴史のなかで告白し続けるものです。ドイツではナチスが教会を支配しようとしたときに「バルメン宣言」(イエス・キリストのみが主であり、ナチズムの全体主義的世界観を批判した)を明らかにしてこれに対抗しようとしました。これもまた「信仰告白」です。

 日本では天皇を含めて戦争責任に関する議論が強く起こることはありませんでした。敗戦直後には「国体護持」が主要なテーマだったからです。教団の戦争責任の問題は、1950年に勃発した朝鮮戦争への危機感を背景に結成された「キリスト者平和の会」が発表した「平和に関する訴え」の中で「第二次大戦に際して、われわれキリスト者が犯した過ちは、平和の福音を単に眺めるのみで、そのために身をもってたたかわなかったところにあり」と述べて「これを深く悔いるものである」としました。そして1965年、当時の大村議長が韓国の総会に招かれてそこで日本を代表して謝罪したことをふまえて、翌1966年に開催された教団の夏期教師講習会の席上で若手教職たちから戦時下の教団の戦争責任を明らかにすべきであるとの意見や、沖縄キリスト教団との合同を推進すべきであるとの提案がなされ、そして1967年3月、日本基督教団議長鈴木正久の名前で「地の塩」「世の光」である教会は「あの戦争に同調すべきではありませんでした」とし、「祖国が罪を犯したとき、わたしどもの教会もまたその罪におちいりました」と述べ、「この罪を俄悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う」という内容の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が公表されたのです。

 この「告白」は他のキリスト教会各派や仏教などの他の宗教を含め、思想や報道、学術などのあらゆる分野において初めて公にされたもので、その後のキリスト教各派、宗教教団にとって先駆的なものとなりました。その後、他のプロテスタントの各教派、カトリック教会のみならず巨大な仏教教団である真宗大谷派(東本願寺)、曹洞宗、浄土真宗本願寺派、臨済宗妙心寺派も戦時下に国策に協力した責任問題を明らかにしました。

 教団の戦争責任告白は、わたしたちが時代のなかで、社会のなかで、聖書に基づいて真実に「地の塩」「世の光」であることと、その使命を担っていく者であることを明らかにしたものです。聖書にしたがって生きる、ということは実に観念的なことではなく、具体的なことです。われわれキリスト者は、聖書が教える「地の塩」「世の光」として、この世において和解と執り成しをする使命があるのです。