「良い土地」

マルコによる福音書 4章1~9節

説教 原 誠 牧師

 日本基督教団は79年前の1941年6月24日に創立した。その創立の事情の経緯について知ることは大切だ。日本の教会の創立当初は「公会」という無教派の教会として出発したが、まもなく教派の教会となった。日本政府はキリスト教を歓迎したのではなく、1873年、「黙認」したのだった。しかし宣教師たちはこれを「解禁」と理解して、全国各地で教会、学校の設立や医療活動などを開始した。

 明治期後半になって、日本に産業社会化が進行してくると、政府は社会不安の解消のために、神道・仏教・キリスト教の代表者を集めて、それぞれの宗教の特性を生かして国民精神の向上に寄与してほしいと懇談した。キリスト教は政府から期待される存在となったことを喜んだ。(「三教会同」)さらに政府は宗教法案を上程したが廃案となった。これは宗教教師の国家資格を求めるもので、信教の自由を侵すという理由で浄土真宗と日本基督教会の強力な反対によるものであった。

 しかし15年戦争の時代に入ってからの1939年に宗教団体法が上程されたときには、キリスト教世界には全く反対の声は上がらず、逆に賛成する人たちもあり、これが教団の創立となった。その時代背景を簡単に振り返ってみると、1928年、治安維持法の改正、特別高等警察の設置、31年満州事変、33年、日本は国際連盟を脱退、37年に日中戦争の開始、38年は国家総動員法が成立、という時代であった。今度の法案はそれぞれの宗教は宗教教団をいわば準公務員の形で統率し、宗教教団の財産は無税とする、というものであった。

 太平洋戦争の時代の教団については説明する時間がない。

 1945年10月、GHQは治安維持法の廃止、特高警察の罷免を指示し、12月28日に宗教団体法も廃止となった。宗教団体法は、弾圧法、統制法だったからだ。

 その後、法的規制がなくなったこともあって、教団からバプテスト、ルーテルなどの教会が離脱して行った。しかし主要な教派であった旧日本基督教会、旧メソヂスト教会、旧組合教会、旧ホーリネスの流れにある教会は、教団を形成していくことになる。そして、今年、教団創立79年の歴史を刻んでいる。教団の成立は負の歴史から始まった。

 聖書が告げる「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもな」ることとはどのようなことか、歴史をふまえつつその問に応える教会でありたい。イエス・キリストへの信仰は、それぞれの土地、文化のなかにありながらも、そのなかで播かれた種は必ず育つのだから。

2020年6月28日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「同伴者である聖霊」

使徒言行録16章6-10節

説教 栗原 健 兄

 聖霊降臨日(ペンテコステ)から3週間が経ちました。今日は、聖霊の働きのことを考えてみましょう。

 19世紀フランスの司祭J・M・ヴィアンネ(1786年-1859年)は、聖霊のことをこうたとえています。「ある王が、家来を旅に出すことになった。王は自分の大臣を呼び寄せると、こう命じた。『私の家臣が旅に出る。あなたは彼に同行し、彼が使命を果たせるようにせよ。旅が終わった時には、必ず彼を無事に私のもとへ連れ帰るように。』」 これは確かに聖霊の働きをよく描いています。私たちの人生の同伴者、導き手として聖霊が与えられているのです。

 今日の聖書箇所は、パウロの第2回宣教旅行(聖書巻末地図8)で起きたことを記しています。アジア州へと向かいかけたパウロは次々に聖霊に阻まれ、さ迷うように旅を続けた後、幻を見てマケドニアに行きます。ヨーロッパにキリスト教が伝わった歴史的場面とされていますが、その前にパウロは、混乱しながら歩むストレスの多い旅をしたのです。

 私たちは、迷いが無くなって自分の道が見える、物事がうまく進むことを聖霊の導きと考えるかも知れません。しかし、パウロのように道に迷うこと、無駄にしか思えないような体験をすることも聖霊の導きの一部、道のりの一部なのです。自分の思惑通りに進まないからこそ「恵み」が働くのですね。必ず私たちを神様のもとに連れ帰ってくれる聖霊が共に旅してくれます。勇気をもって進んで行きましょう。

2020年6月21日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「虹の架け橋」

ホセア書 10章12節

説教 新免 貢 教師

 2年前、侵入者と間違えられた自分の息子を白人女性警官に射殺された黒人女性が法廷で証言しました、「赦しは私たちキリスト者にとって癒しとなります。しかし、私たちには、自分たちが住んでいる町で、まっとうで正しいこと(=正義)が行われるようにする責任があります」。重みのある言葉です。赦しと正義は切り離せません。赦しは決して軽いものではなく、正義を求めて共に戦うことを伴います。最近も黒人男性が警察側の暴力で命を奪われ、正義が行われるように責任を問う大抗議デモが全米各地で展開されています。
 「正義」に関連して、『ホセア書』10章12節が思い起こされます。そこに「あなたたちは自分のために正義をまき、いつくしみに見合った刈りとりを行いなさい…」と記されています。聖書全体の人間観と世界観が美しく要約されています。根元に土をかぶせて草木を育てるように、正義の感覚を互いにつちかい、養い育てる。それがその中心的メッセージです。「正義」は、ひどい目にあっている人たちの訴えが正しく聞きあげられることです。「正義」には「慈しみ」が伴います。「慈しみ」は、忠実に生きる態度、変わらない心づかいなどを意味します。「慈しみ」と「正義」は間違いなく良き実を結びます。この二つが、コロナウィルス感染下の混乱した世界を修復していくための社会的基盤として、まだ見ぬ未来につながる虹の架け橋となることが期待されます。

2020年6月14日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「試練に出会うとき」

ヤコブの手紙1章2~8節

説教 原 誠 牧師

 今、わたしたちはコロナの影響によって制約を受けた状況で礼拝を守っている。歴史のなかで教会は困難な現実に遭遇したときに、常に聖書にもどって「再読」をし続けてきた。もし、今、わたしたちが聖書を「再解釈」できなくなれば、キリスト教は存在意義を失い、賞味期限切れとなり、博物館にいくことになる。わたしたちは、今日も「信仰の告白」を行う。イエスは主であり、イエスは復活して今も生きて働いているという信仰である。そしてわたしたちはその「証人」である。

 「宗教」という言葉について考えたい。日本には古来、宗教という言葉はなかったが、明治期に「宗教」という言葉が翻訳された。宗教とはラテン語のReligioに基因し、それが英語でReligionとなった。その語源的意味は、re-legere、再読、反復吟味、選び取る、整理する、という意味である。常に原点に帰り、聖書にもどり、そして現在の我々に聖書がどのようなメッセージを発し続けているか、今日、福音とはなにか、それが宗教ということだ。「イエスは主である」ということの意味は「イエス以外は主、神ではない」ということである。具体的にはローマ皇帝はこの世の権力者ではあるが、神ではないということを意味し、「復活した」という信仰は、「イエスの十字架の死が終わりではなく始まりであり、今のわれわれに生きて働き、われわれの救いの根拠である」ということである。そしてそれは「讃美」であり「感謝」であった。

 キリスト教の最初の教会会議(使徒言行録15章)でなされた決断は、キリスト教は「割礼」を救いの条件にしないということであった。このことによってキリスト教は民族、男女、年齢、ローマ市民、奴隷などの差異を超えて、すべての人に対して開かれた教えとなり「聖なる公同の教会」を形成していった。信仰のリアリティはこうして繰り返し「再読」されて今日に至る。その「再読」は、なにもない平穏無事な日常のなかで「再読」されたのではなく、実に厳しい試練、戦い、そして迫害のなかで問われ、鍛えられて、「福音とは」「信仰とは」と問われ続け、「再読」されてきた。わたしたちはその証人だ。

 今日の聖書の箇所で「いろんな試練に出会う」と書かれ、このとき「喜びと思いなさい」と語られ「信仰が試される」とある。現実は厳しい極限状況が今後もしばらくは続く。コロナウィルスの影響は、政治、経済、社会、一人一人の暮らしに直接関わっている。困難な状況があればあるだけさまざまな局面が生まれる。自警警察が生まれたことなど、わたしたちはどう考えたらよいのか。「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く」という現実がある。おそらくは恐怖にかられて、社会(地域)を守るためによいことをしている、ということなのではないだろうか。

 このとき、わたしたちはみ言葉から実に多くの示唆が与えられ、そして慰めと希望、癒しがここにあることを「再読」していく。