平和聖日「スーチーさんの国のキリスト教 」

ローマの信徒への手紙15章7~13節

説教 原 誠 牧師

 今日は教団の定めによって「平和聖日」として礼拝を守る。

 わたしは16年前の2004年の正月を、ミャンマー(ビルマ)で迎えた。それはビルマにあるミャンマー・カレン・バプテスト・コンベンションの特別な集会に出席するためであった。この教会の信徒の数は100万人で、ミャンマーで最大の教会だ。この年はミャンマーのカレン族で最初に洗礼を受けてクリスチャンとなったコー・ター・ビューの175年という年、またカレン語の聖書が翻訳出版されて150年、そしてこの教団の87回目の総会という記念の年であった。わたしはタイのカレン族の友人たちと共にこの集会に出席することができた。参加者の数は15,000人をくだらない。

 開会礼拝のとき、私は外国からのお客さんとして紹介されて挨拶することを求められた。私は大要、以下のように述べた。

 「カレンのクリスチャンの皆さんにとって重要な会議に出席することができて感謝しています。わたしの父は今も生きていますが牧師でした。神学校を卒業し短期間、教会の牧師として働いたあと、日本軍は彼を徴兵して日本陸軍の兵士となりました。そしてあなたの国、ビルマに来ました。多くの日本兵があなたの国で戦い、そして死にましたが、戦争が終わったあと、彼は無事に日本にもどり、また牧師として働き始め、結婚して私が生まれました。私は父の姿、生涯から多くのことを学びました。歴史を学びました。そして日本兵のみならず、じつに多くのビルマの人々、カレンの人々が殺されたことを知っています。ですからわたしはひとりの日本人として、日本人のクリスチャンとして、日本人の牧師として、また日本の神学校の教師のひとりとして、皆様に心からの謝罪をいたします」というものであった。その後、総幹事のオナー・ニョ牧師を始め、多くの人々から握手を求められた。

 ミャンマーには多くの少数民族がおり、そのなかには親英派も独立を求める反英派もいた。そして日本軍侵攻後には、同様に親日派であったものと反日派であったもの、そして戦後のビルマの独立以後はビルマの独立を維持しようとする立場と、他方ビルマからの分離独立を求めて戦い続ける、というように歴史のなかで民族ごとの立場、あるいは仏教、アニミズム、キリスト教というように、宗教によっても、また集落によっても、それは均一ではなく、多くの要素が複雑に絡み合ってきた。キリスト教徒が多かったカレン、カチン、チン族の人々は、日本軍による統治のこの時代に親英派とみなされて多くの村が破壊され、住民が殺された。

 事柄は、戦争か平和か、どちらがいいか、というような単純な二者択一ではなく、生きた現実のさまざまな要因によって、個人としては抗いようもない状況のなかに追い込められて、望む形でなく望まない形のなかに置かれて翻弄される。

 わたしたちが生きているこの現実のなかで、何が起こり、何が問われていることなのか、わたしたちの信仰の目で、信仰の聖霊の導きが何を示しているのか、求め続けていきたい。