「仕えられるためにではなく仕えるために」

マタイによる福音書20章25~28節

説教 原 誠 牧師

 今朝は棕櫚の主日、来週は復活日で、われわれキリスト者にとって最も大切な日です。イエスの十字架の死と復活を念頭に置きながら、わたしたちの仙台北教会が大切なことと信じてきた会衆派の教会、信仰を改めて学びたいと思います。
 わたしたちはプロテスタントです。その意味は「抗議するもの」ですが、誰に対して、何に対して「抗議」したのでしょうか。それはカトリック教会でした。カトリックという意味は「唯一、普遍、公同」です。それはひとつの教皇のもとにたった一つの教会ということで、そこには信じる自由、信じない自由はありませんでした。このカトリックに対して宗教改革が始められましたが、結論的に言えばルターによる「ルター派」の教会も、スイスのチューリヒでツイングリによって形成された「改革派教会」も、カルヴァンによって設立された「長老派」の教会も、当初は「領邦教会」「国家教会」となりました。宗教改革とは言うもののカトリックと同じく信じる自由、信じない自由はなかったのです。このヨーロッパの動きはイギリスの宗教改革に影響を与えました。イギリスの宗教改革は、信仰の内容はプロテスタント、教会の制度はカトリック、すなわち「英国国教会」となりました。そこでも「信教の自由」はなかったのです。そのようななかで「国教」というものが宗教の腐敗堕落だと考える純粋なキリスト者たち(ピューリタン)が生まれました。彼らは英国国教会の圧政下で特に苦しみ、多くが犠牲となりました。そのピューリタンたちの一派に独立派(Independents)または会衆派(Congregationalists)を唱える人たちがいました。彼らこそが会衆派教会の原点です。彼らは厳しい弾圧を受け一部はオランダに亡命し、その後、自由を求めてメイフラワー号でアメリカ大陸に渡ったのです。
 アメリカは新しい移民の社会でした。そこで生まれた教会は自己中心的な自分たちだけの教会を形成しようとしたのではなく、世俗社会の権力や干渉は拒んでも社会への奉仕は忘れませんでした。会衆派教会は教会の組織を維持するために教規や教憲を振りかざして各個教会を裁くなどという行為を言語道断と考えます。それは国家のやることで教会が国家のように振る舞うことをあるまじき振る舞いであると考えました。そこには本質的な謙虚さがあります。教会は人々の救いのために「仕える」のです。
 出エジプト記で「わたしは必ずあなたと共にいる」と宣言し、またマタイによる福音書のなかで「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と記されています。
 イエスの生き方と生涯、そして十字架の死と復活の出来事のなかで、罪人の足を洗ったイエスのことを思い出します。会衆派の教会はイエスの福音宣教が愛と自己犠牲であったことを覚え、社会的責任を最も強く重んずるキリスト教として活躍し続けました。この信仰的伝統を確かに引き継いだ新島襄が、京都に同志社を設立し、この伝統が東北の仙台に根付いて今日まで続いてきたのです。今年の3月13日は仙台北教会の134年目の創立記念日でした。わたしたちはこの精神的伝統を正しく継承し、新たに赴任する近藤牧師とともに仕える教会として使命を果たしていく教会であって頂きたい。

2021年3月28日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「この世の最上の業」

エフェソの信徒への手紙 6章18~20節

説教 伊藤 香美子 姉

  先日バスに乗ったとき、学生さんに席を譲られ、初めての経験で一瞬戸惑いましたが、「ありがとう」と感謝して座りました。一昨年、後期高齢者となり、日々自己の老いを自覚しているつもりでしたが、正直なところショックでした。しかし 、これからは自己の 老いをしっかり受け止めて、キリスト者としていかに老いを生きるか を考えねばと思いました。 その時、ヘルマン・ ホイベルス神父の「最上の業」に出会い、大きな希望を与えられました 。
  今若い人も必ず老います。共に「最上の業」を学びましょう。

最上の業
ヘルマン・ホイベルス神父


この世の最上の業は何?
楽しい心で年をとり、働きたいけど休み、失望しそうなときに希望し、
従順に平静に己の十字架を担う。
若者が元気いっぱいで歩むのを見てもねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱っても、もはや人の為に役立たずとも親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物。
古びた心にこれで磨きをかける。真の故郷に行くために!

己をこの世につなぐ鎖を少しずつはがしていくのは真にえらい事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後に一番良い仕事を残してくださる。 それは祈りだ。
手は何もできない。けれど最後まで合掌できる。
愛する全ての人の上に神の恵みを求める為に。

全てをなし終えたら臨終の床に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と言い。
2021年3月21日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

教会創立記念礼拝「一緒にお泊りください」

ルカによる福音書24章13-35節

説教 栗原 健 兄

 教会の創立記念日にあたる今日、「エマオへの道」の話を通じて、教会とはどのような存在であるかを考えてみましょう。「エマオ」の話を聞くと、私には思い出すことがあります。私が研究のためにドイツに滞在していた頃、バード・ガンダースハイムという町に行く機会がありました。この町に聖ゲオルク教会という小さな教会があるのですが、入口の扉に「エマオ」の場面が描かれていました。金色に染まった夕焼けの景色の中にイエスと2人の弟子の後ろ姿があり、下には、「一緒にお泊りください。もう日が暮れます」との言葉が添えられていました。おそらく17世紀頃に旅回りの画家が描いたのであろう拙い絵ですが、このイメージが不思議と私の心に残りました。
 「エマオ」の話には、神の愛があふれています。復活を信じずにエルサレムを離れた2人の弟子たちを、主イエスは見捨てることなく後を追って行きます。姿を隠して彼らの前に現れたのは、彼らのホンネを聞きたかったからでしょう。面白いことに、文字数で言えばこの物語のメインは、イエスに促されて弟子たちが語った落胆と混乱の言葉です。ある意味、これは主イエスらしい話ではないでしょうか。主は私たちの痛み、失望、迷いに耳を傾けて下さいます。「それを話してほしい」と言われるのです。痛みを分かち合った後、御言葉が心にしみ入り、神の導きを知る。それは信仰の道そのものだと言えます。
 こう考えると、教会はエマオの宿のようなところだと言えます。苦しみを分かち合い、御言葉を聞きつつ共に歩み、感謝して食を分かつ。その時に、主イエスが今まで自分たちと一緒に歩いて下さっていたこと、御言葉を通じて励まして下さっていたことを知る。神の恵みの内に歩んで来たことを思い出す。そこから力を得て再び旅路に出る。それこそが、私たちが教会に集う意味と言えます。殊に創立記念の日にはそのことが強く感じられますね。北教会も多くの試練を経て来ましたが、主が共に歩んで下さったことを思い起こし、力を得て旅を続けましょう。

2021年3月14日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

東日本大震災記念礼拝「御顔こそ、わたしの救い」

詩編42編 2~12節

説教 原 誠 牧師

 今朝、わたしたちは10年前の2011年3月11日の東日本大震災を憶えて礼拝を守る。
 地震と津波、そして原発の事故がわたしたちにもたらした出来事の前で、今を生きている。そしてたしたちはそのなかにあって、一人一人キリスト者としての信仰を持つもの、あるいは広く宗教者として、このできごとをどのように受け止めるのか、今朝、ともにみ言葉から受け止めたい。
 わたしは昨年3月、仙台フィルが避難所などで演奏するテレビの番組を見た。仙台の仏教寺院を会場にしてアヴェ・マリアの曲が流れた。それを歌っていたのは菅英三子さんだった。歌に聞き入っていた人びとは宗教の違いを超え、信仰の有る無しを超えて、涙を流しながら歌に耳を、そして心と魂を傾けていたシーンを憶えている。
 今朝、限られた時間であるが、端的に二つのことを、ほぼ結論的に述べる。
ひとつは神義論に関する議論に関するものだ。なぜ地震、津波が起こるのか。もう一つは創造論に関わる議論だ。
 神義論とは「もし神が正しいなら、なぜ悪があるか、災難、不公平があるか」、「なぜ神に忠実なものが苦しまなければならないのか」という問いに、神はどう答えるのかという議論だ。わたしたちは、この震災が人間の傲慢に対する神の裁きだという理解には決して与しない。そしてこの議論については、(1)われわれはこの問いに答えられない。(2)しかし、この場合、地震、津波などの「10年前」における犠牲者(生命、家族、職場、地域共同体)への「祈り」を取り上げない神学(信仰)はない。神はその現実のただなかに生きて働いている。(3)だからこの問題は、答えのないままで問い続けられなければならない。これが神議論に関する達し得た現実である。そしてそれは自分の思いや願いを実現してくれるのが神であるという切実な祈り、うめきであっても、それがいかに敬虔な信仰から生み出されたものであっても、それは実は信仰深くわたしが神になるということになろう。神のみが神である、ということに対して徹底的に謙遜にされるということである。
もうひとつは創造論に関わる。原子力や地球の温暖化を含めたわれわれの科学技術と文明に関わる理解だ。聖書はこのようにわれわれが築き上げてきた近代の文明に対して、神は人間に何を命じているか、ということだ。創世記1章の神の天地創造の物語のなかで、神は人間を創造し、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」とある。神は人間に管理を委ねた。われわれ人間はIMAGO DEI(神の似像)である。わたしたちは、人間の欲望が科学技術を開発し、その恩恵を享受してきたが、その根本のところでわれわれは神によって創造された被創物であることを深く心に刻みたい。神からの委託に応えるということは、徹底的に謙虚になることだ。
神議論と創造論という二つの重要なキリスト教の思想のただなかで、わたしたちは10年を憶えつつ、現在の状況を深く憶え、その課題を担っていく使命を果たしていきたい。