ペンテコステ礼拝「神の子」

ヨハネによる福音書 1章23~34節

説教 上野 和明 牧師 (仙台愛泉教会 牧師)

 ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネが語ったこととして次のように記している。まず、自分は水で洗礼を与えるとヨハネは語る。これは形を与えることと言える。ヨハネ以前にも洗礼の「ようなもの」はあったと言われている。ヨハネが最初に、洗礼とはこうするものだというはっきりした型を整えた。そのうえでヨハネはこう言う、主イエスは「聖霊によって」洗礼を与えると。
「聖霊によって」とは意味を与えることだと考えていい。いわばヨハネの型に中身を注ぐことであり、ちょうどカップの中に飲み物を入れるようなことと言える。そのカップは誰かに「どうぞ」と渡すもの、洗礼という行いを通して一つの意味を伝えるものだ。「罪は取り除かれた」こと、実際に取り除くのは主イエスであること、この二つを広く伝えるために洗礼はある。罪が取り除かれたことは、後に一人子である主イエスが小羊となること、十字架の上で命をささげることを通して示される。なぜ主は小羊となったか、神が人間を愛しているからだ、それがその神の想いを伝えるのが聖霊である。
洗礼とは、それを受ける者が神の愛を受け入れたことを実際の形で示すことになる。人間のあるべき姿を示すことにつながる。聖霊は伝えるべき神の心、だからこそ、聖霊が与えられたことが教会の始まりとなる。教会の務めはなによりも伝えることになる。

「時代のしるし」

創世記8章1~19節
マタイによる福音書 16章2~3節

説教 北 博 兄

 聖書に1年以上も外出できなかった人の話が書かれている。それはノアである。創世記6章9節「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった」。「神に従う人」は直訳すれば「正しい人」、「無垢な人」は他では「全き人」とも訳されており、「心だけではない全体としての人間の健全性」である。アブラハム(創17:1)とヨブ(ヨブ1:1)もこの言葉で称賛されている。このノアに、ある日神は巨大な箱舟を作るよう命じ、その構造について細かく指示する。ノアはただ黙々と、神に命じられた通りに造船作業を続け、すべての動物達が箱舟に入った後、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(7章16節)。神がノアに外に出るよう命じたのは、最初の日付から数えて実に1年10日後である。ノア達は、どれだけ不安で大変だったことか。洪水後の世界は、それ以前とは様変わりしていた。しかし、変わらないばかりか新たな意味づけをされたことがある。人間の「神の似姿」性(1章27節)は、9章6節ではそれを根拠として、殺人の禁止が宣言される。コロナ後のIT社会においても、人間の尊厳はより一層守られなければならない。
  マタイによる福音書16章3節で、イエスは空模様から天候を判断することにたとえて「時代のしるし」を見るように言っている。今、時代は大きく変わろうとしている。私達もそれぞれ、多かれ少なかれ変わらざるを得ないであろう。しかし、急速に変化する社会に追いつこうとして、慌てて流れに乗るだけでなく、変えてはならないもの、守るべきものをも、しっかりと見分ける必要がある。聖書をよく読み、よく祈り、しっかりと時代のしるしを注視していきたい。

「新しい使命」

ヨハネによる福音書 21章15~19節

説教 原 誠 牧師

 キリスト教のメッセージの重要なひとつに「逆説」というものがあります。目に見えるものではなく、全く逆にこそ神の支配が現れるのです。イエスが人間扱いされないで馬小屋で生まれたこと、そして十字架の死は、最も忌み嫌う死でした。復活のイエスに出会う、ということは中央ではなく周辺、辺境のガリラヤで会ったことの意味もここにあります。
 十字架の死ののちペトロたちはかつての仕事、漁師にもどりました。それ以外の選択肢はなかったのでしょう。しかしペトロにとってイエスと共に歩んだ3年の間、心に言葉に尽くせない大きな傷をおっていました。筆頭弟子であったペトロは正しくイエスをメシアと告白しながら、イエスの逮捕の過程、見捨てて逃げ出し否認したのですから。言葉に尽くせない大きな深い傷です。わたしたちに則していえば、愛する両親、家族、子どもを自分の生命惜しさに否認した、事柄の優先順位を覆してしまった,という体験です。2度と立ち上がれない「悔い」です。
 そのようなペトロたちはわからないながらも、イエスが指示した右側に網を入れたことによって大漁となり、食事をともにします。ここにイエスとの関わりが抽象ではなく生命、「食」に関わることとして示されます。そしてイエスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問います。そしてペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、そしてそれに対してイエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われます。それが3度、繰り返されました。3度目のとき、聖書はペトロが「悲しくなった」と記しています。「あなたは何もかもご存じです」と。
 それは人間ペトロの傷、弱さなど、それらすべてを知った上でということです。わたしたちも自分の惨めさ、弱さ、限界など、それらすべてを知られている上で信仰に導かれました。ここに「逆説」の真理があります。
 わたしたちがイエス・キリストに召し出されて、信仰が与えられ、教会に連なるものの一人とされたということは、ここにも示される深い「逆説」を通して、わたしにかかわるのです。そして「わたしに従いなさい」と言われます。わたしたちの人生のなかで、わたしたちひとりひとりに新しい使命が与えられて、使命を担い、イエスに聴き従う生き方へと促されていくのです。