「悔い改めにふさわしい実-和解」

マタイによる福音書 3章7~11節

説教 原 誠 牧師

 今年は日韓関係国交回復55年 の年です。現在、両国の関係は最悪といわれています。日本は36年の間、韓国を統治しました。日本の敗戦後、日本には平和が回復したという認識がありましたが、韓国で は朝鮮戦争を経験しました。アメリカにしてみると共産主義に対する最前線の韓国、兵站基地である日本の国交がないことは重要な問題でした。こうして国交回復をしました。

  日韓国交回復なった韓国では、韓国の有力な教会のひとつである大韓基督教長老会が50回総会に65年9月25日から30日まで当時の教団大村勇議長を招待しました。通常、総会というものは議事日程が詳細に準備され、来賓の挨拶などもスケジュールに組み込まれています。議案が上程され承認されていわば流れ作業のように日程を消化していくものです。しかし教団の大村議長の挨拶を受けるかどうかでは紛糾し3時間激論が交わされました。議場では当初、挨拶は受けないという意見が多数でしたが、最終的に僅差で挨拶を受けることに決し、議場の外で待っていた大村議長は議場に招き入れられ、50回総会への祝辞と共に日本の36年の植民地統治について日本を代表して謝罪をしました。なぜ議論がひっくり返ったのでしょうか。そのときの主な理由はわれわれクリスチャンは神によって罪を赦されたのだからたとえ日本人でも赦すべきだ、というものでした。ここに和解の福音が示されました。そこには民族や国籍を超えた信仰の決断がありました。

  その後、教団は韓国の主要3教会、大韓イエス教長老会、基督教大韓監理会、韓国基督教長老会と、続いて在日大韓基督教会とも宣教協約をむすぶことになり、現在に至ります。

  在日大韓基督教会のことについても簡単に触れます。現在の在日大韓基督教会の前身は、1908年に成立していた在日本朝鮮基督教会でした。1941年に宗教団体法によって教団が成立しようとしていたとき、この教会は日本基督教会に加入を申し入れました。このとき大阪の浪速中会の教会は、彼らに牧師の再試験、日本語の使用、日本基督教会の信条に服することを条件として提示しました。ここには日本にある日本人と韓国人のキリスト者として共に生きる姿勢はありませんでした。敗戦後、宗教団体法が廃止された直後、この教会の人たちはいち早く教団を離脱し現在の在日大韓基督教会を組織して現在に至ります。

  わたしたちの教団の信仰告白には「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、」と告白します。

  このような歴史的な出来事があったことを、現在の韓国の教会も教団もほとんど忘れています。歴史的な経緯を知るということはとても大切なことですが、より本質的にはわたしたちの日常のなかで、信仰とは何であるのか、何を是とし、何を否とするか、そこにおいてわたしたちの信仰が問われている、ということを知りたいと思います 。

2020年8月30日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「以前は気づかなかったこと」

使徒言行録 3章1~10節

説教 栗原 健 兄

 エルサレム神殿の 「美しい門」の前で、足の不自由な男が物乞いをしていました。壮麗な門の前に、「神のかたち」として創られたはずの人間が惨めに置かれているコントラストは、胸が痛むものがあります。ペトロとヨハネは彼に目を留めました。もしかすると、2人は以前、イエスと共に神殿に来た時にもこの男を見 ていたかも知れません。しかし、その時は、彼ら弟子たちは神殿の豪華さばかりに気を取られていました(マルコによる福音書13章1節)。実際、弟子たちは障害ある人に対して無神経な態度をとることすらあったようです(ヨハネによる福音書9章2節)。その後、主イエスの十字架と復活、聖霊降臨を経て神の愛の深さを知った2人は、今度は男の存在に気が付きます。

このことは大事なことを示しているのではないでしょうか。主の愛を知った者は、他者もまた主に愛された兄弟であることを見出し、彼らの痛みや悲しみに目を向けるようになります。社会のうわべの華やかさよりも、その下で苦しんでいる人の声に気がつくようになるのです。ペトロは、「右手を取って」男を立ち上がらせました(7節)。人間と人間のつながりが生まれたことが感じられるシーンです。その後、男は「神を賛美し、2人と一緒に境内に入って行った」(8節)と あります。私たちは、独りで清らかになって神の国の門をくぐるのではありません。常に他者と共に入って行きます。このことを覚えましょう。

2020年8月23日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「わたしは神・敗戦と教団」

イザヤ書45章20~25節

説教 原 誠 牧師

 75年前の1945年8月15日の敗戦を、わたしたちが属している教団は、牧師は、信徒は、どのように受け止めたのか資料を通して振り返ってみる。教団は宗教団体法によって1941年6月に成立した。戦時下の教団は、一面は教会であったが他面は国家の行政の一端を担う存在であった。その有り様の一端は、総理者の伊勢神宮参拝、戦時布教指針を令達、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」の発表、軍用機献納などが挙げられる。45年8月16日に予定されていた戦意昂揚音楽礼拝は15日朝に中止となり、8月28日開催の第13回戦時宗教報国会常務理事会は、教団統理者の令達を全教会に発送した。

 昭和二十年八月ニ十八日/日本基督教団統理者  富田満/各教区支教区長/各教会主管者各位/「(前略)本教団ノ教師及ビ信徒ハ此ノ際聖旨ヲ奉戴シ国体護持の一念ニ徹シ、愈々信仰ニ励ミ、総力ヲ将来ノ国力再興ニ傾ケ、以テ聖慮ニ応へ奉ラザルベカラズ。我等ハ先ヅ事茲ニ至リタルハ畢竟我等ノ匪躬ノ誠足ラズ報国ノ力乏シキニ因リシコトヲ深刻ニ反省懺悔シ、今後ノ辿ルベキ荊棘ノ道ヲ忍苦精進以テ新日本ノ精神的基礎ニ貢献センコトヲ厳カニ誓フベシ。特ニ宗教報国ヲ任トスル我等ハ左記ニ留意シ、信徒ノ教導並ニ一般国民ノ教化ニ万全ヲ期スベシ。(以下略)」

 ここで述べられている第一の主題は「国体護持」であり、次いで戦争に負けたのはわれわれキリスト者の「報国ノ力」が乏かったことにあり、これに対してわれわれは「深刻ニ反省懺悔」しなければならない、というものであった。

 ここには平和が回復する、自由が回復する、そしてこれからは信仰に基づいた歩みができる、という期待を込めた解放感ではなく、当時の言い方でいえば「皇国臣民」としてのとらえ方が第一にあった、ということになる。われわれ日本の歴史とその社会にあるキリスト者、そしてその信仰ということが、何にあるか、何であったか、思いを巡らせる必要がある。我々の信仰とは、どのような信仰であったか。またなによりも神の前に戦時中の教会の歩みについて懺悔する信仰をかいま見ることはできない。

 この問に対する答えは、単純ではないだろう。しかし、一人の信仰者として、避けては通れない問であることはわかる。戦時下に我々キリスト者は、非国民、ヤソと言われて被害者だったという言い方では説明しようもない、大きな隙間、開きがある。

 それが75年前のわたしたちの教会の信仰、わたしたち信仰の先達たちの信仰であった。日本の敗戦とわたしたちの信仰を、歴史をひもときながら、わたしたちの今の信仰を考えたい。聖書が示す「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。」という言葉、あるいは十戒の第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という教えを、今、歴史のなかでかみしめる必要がある。

2020年8月16日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「罪と赦し」

ローマの信徒への手紙7章15~25節
フィリピの信徒への手紙2章6~8節

説教 北 博 兄

 キリスト教の罪は、アウグスティヌスが打ち立てた原罪の教理によれば、人間の本性に必然的に備わっているものである。罪は無意識の世界と似てはいないか。無意識の世界は実体として実証的に把握することはできないが、実感としてはまぎれもなく自分の一部として存在している。罪もこれと同じではないだろうか。自分の中には他者への献身的で自己犠牲的な愛といった崇高な指向性と同時に、潜在的には憎悪や嫉妬といった暴力的な指向性も確実に存在しており、どちらも正義感と結びついて顕在化する。そしてどうもこれはどの人間にも共通しており、そう言った二重の指向性が社会をも動かしているらしい。罪は実体的に把握できるものではない。それでも罪は、確実に存在する。それは個人的にも社会的にも悪という形で表面化し、個々の悪を通して言わば状況証拠的に認識できる。

 それではどうやって罪と向き合うべきか。様々な差別や迫害、暴力、不正、それに環境破壊、これは皆目には見えない罪のなせるわざであり、社会の問題であると同時に、根本的にはその元凶である自分自身の問題であり、課題である。多くの人々と力を合わせて、罪の表れである社会悪と一つ一つ戦っていく中で、自分自身の罪とも向き合うことになるのではないだろうか。

 キリストは私達の罪のために今も十字架上で血を流し続けており、差別や暴力の犠牲者という形を取って、日々私達と出会われている。

平和聖日「スーチーさんの国のキリスト教 」

ローマの信徒への手紙15章7~13節

説教 原 誠 牧師

 今日は教団の定めによって「平和聖日」として礼拝を守る。

 わたしは16年前の2004年の正月を、ミャンマー(ビルマ)で迎えた。それはビルマにあるミャンマー・カレン・バプテスト・コンベンションの特別な集会に出席するためであった。この教会の信徒の数は100万人で、ミャンマーで最大の教会だ。この年はミャンマーのカレン族で最初に洗礼を受けてクリスチャンとなったコー・ター・ビューの175年という年、またカレン語の聖書が翻訳出版されて150年、そしてこの教団の87回目の総会という記念の年であった。わたしはタイのカレン族の友人たちと共にこの集会に出席することができた。参加者の数は15,000人をくだらない。

 開会礼拝のとき、私は外国からのお客さんとして紹介されて挨拶することを求められた。私は大要、以下のように述べた。

 「カレンのクリスチャンの皆さんにとって重要な会議に出席することができて感謝しています。わたしの父は今も生きていますが牧師でした。神学校を卒業し短期間、教会の牧師として働いたあと、日本軍は彼を徴兵して日本陸軍の兵士となりました。そしてあなたの国、ビルマに来ました。多くの日本兵があなたの国で戦い、そして死にましたが、戦争が終わったあと、彼は無事に日本にもどり、また牧師として働き始め、結婚して私が生まれました。私は父の姿、生涯から多くのことを学びました。歴史を学びました。そして日本兵のみならず、じつに多くのビルマの人々、カレンの人々が殺されたことを知っています。ですからわたしはひとりの日本人として、日本人のクリスチャンとして、日本人の牧師として、また日本の神学校の教師のひとりとして、皆様に心からの謝罪をいたします」というものであった。その後、総幹事のオナー・ニョ牧師を始め、多くの人々から握手を求められた。

 ミャンマーには多くの少数民族がおり、そのなかには親英派も独立を求める反英派もいた。そして日本軍侵攻後には、同様に親日派であったものと反日派であったもの、そして戦後のビルマの独立以後はビルマの独立を維持しようとする立場と、他方ビルマからの分離独立を求めて戦い続ける、というように歴史のなかで民族ごとの立場、あるいは仏教、アニミズム、キリスト教というように、宗教によっても、また集落によっても、それは均一ではなく、多くの要素が複雑に絡み合ってきた。キリスト教徒が多かったカレン、カチン、チン族の人々は、日本軍による統治のこの時代に親英派とみなされて多くの村が破壊され、住民が殺された。

 事柄は、戦争か平和か、どちらがいいか、というような単純な二者択一ではなく、生きた現実のさまざまな要因によって、個人としては抗いようもない状況のなかに追い込められて、望む形でなく望まない形のなかに置かれて翻弄される。

 わたしたちが生きているこの現実のなかで、何が起こり、何が問われていることなのか、わたしたちの信仰の目で、信仰の聖霊の導きが何を示しているのか、求め続けていきたい。