「将来の教会像への参考に~フィリピンのキリスト教」

箴言29章18節
使徒言行録2章1-4節

説教 北 博 兄

 現在フィリピンと呼ばれる群島は、1565年からスペインの統治下に入った、とされる。ところがこの時既に、イスラム文化が南部からルソン島のマニラにまで達していた。その後スペインは急速に支配地域を拡大するが、ルソン島に次いで二番目に大きい南部のミンダナオ島を支配することは最後まで出来なかった。その結果、スペインは全体としてはフィリピンのカトリック化に成功したにもかかわらず、南部のミンダナオ島とその周辺だけはほぼ全部イスラム勢力として残った。
 その後フィリピンは、1898年に米西戦争に乗じて独立を宣言するが、翌年米国に武力制圧され、以後米国の植民地となる。米国はミンダナオ島も徹底的に武力で制圧し、セブ島などから貧農を多数入植させる。この結果、農民の間でカトリックとイスラムに分かれた土地をめぐる争いが始まる。その後日米戦争開始直後からフィリピンは日本に支配されるが、日本の敗戦によって再び米国の支配下に戻った後、1946年に独立。この後も米軍の駐留は続くが、1991年の国会決議によって米軍基地はすべて返還され、米軍は撤退した。
 このような歴史的経過を辿ったため、フィリピンは今でも基本的にカトリック国だが、イスラム人口も南部を中心にまとまった形で存在する。フィリピンのキリスト教は、長い間の他国による支配の歴史を反映して、民族主義的傾向が強い。また、1986年と2001年の二度の政変の際には、教会が民主化運動を担った。フィリピンでは共同体的な結束がかなり強い。教会が地域の催しの会場となったり、牧師が地域のお世話役として活動したりもする。更に、一般にフィリピン人は体を使った表現を好むので、様々な象徴行為で信仰を表現することが多くある。従って、政治的危機の際に教会からみんなで一緒に歌いながら通りを行進し、公園で集会を始めるといった行動も、自然な流れのようだ。
 あちらでは、本は貴重品で、貧しい農民にはとても手が出ない。それにもかかわらず聖書は、人々の生活に密着している。その理解は単純素朴だが、生活の中でよく咀嚼されている。牧師の説教は分かり易くて実際的で、できれば楽しいものが喜ばれる。皆さんおしゃべりと会食が大好きで、礼拝が終わってもなかなか帰ろうとはしない。平日も子沢山の家々では毎日どこかで誕生祝いが行われ、牧師さんはあちこち忙しく顔を出す。
 箴言29章18節の「幻」は英語ではビジョン、次の「教え」はルールや規範。「幻」とは設計図、「教え」はその具体化である。今、世界中がコロナ禍に苦しんでおり、社会や人間の在り方が世界大の規模で問われている。その中で教会もまた、その本質的役割とこれからの在り方が問われている。これは決して容易なことではない。しかし使徒言行録2章に記されているように、教会は元来人間の力ではなく聖霊の業によって開始された世界的出来事である。将来を見据え、大きな方向性を見誤らないようにしたい。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」

ローマの信徒への手紙 12章9~15節

説教 原 誠 牧師

 今日の説教では沖縄の教会の歴史的な事柄を知ることを通して、教会とは何かということについて思いを深めたい。
 独立国であった琉球は日本に編入されたあとのキリスト教の伝道は、1880年代に本土で教派の教会が成立した後に始められた。そのときは通訳が必要であった。時代が下って1941年に宗教団体法によって日本基督教団が成立した時、沖縄の教会は九州教区の沖縄支教区となった。当時の沖縄には5教派、16教会(日本基督教会、日本メソヂスト教会、日本パブテスト教会、きよめ教会、そして救世軍)があり、クリスチャンは約2000名であった。
 沖縄戦が始まる前に集団疎開が始まり、本土出身、沖縄出身のほとんどの牧師が沖縄を離れた。この出来事はのちに羊飼いが羊を見捨てて逃げ去ったと言われた。沖縄に残ったのは首里教会の佐久原好伝牧師のみで、彼は教会を守って最終的に戦死した。沖縄戦後、住民は収容所で生活を始め、生き残ったキリスト者は共に讃美歌を歌うことから戦後のキリスト教の活動は再開された。それは九州教区沖縄支教区が消滅したということであった。収容所では牧師が決定的に足りなかった。特徴的なことは神学教育を受けなかった信徒が米軍のチャプレンから按手礼を受けて牧師となって教会の再建にあたったことである。戦後の沖縄の教会は「信徒の教会」だった。
 イエス・キリストが支配する教会が国家、政治、軍事によって分断されたことを、信仰の共同体であるわたしたちはどう捉えたらよいのか。もちろん本土でも教会もまた罹災し、飢え、自分の教会の再建で大変だったが、わたしたちが口にする「隣人」、否「主にある同胞」を意識の中から欠落させてしまった歴史を深く知る必要がある。
 そしてアメリカの教会の援助を受けて沖縄の教会から有望な青年が本土やアメリカに留学し、卒業後に沖縄の教会にもどってきた。ここでは米軍によって按手礼を受けた牧師と神学を学んできた青年牧師との間のキリスト教理解や米軍認識などで大きな溝となった。
 1966年の夏に行われた教団の夏期教師研修会では教団の戦争責任が議論され始めた。その発端はその前年に当時の大村勇日本基督教団議長が韓国基督教長老会の総会で謝罪したことに端を発したものであった。このときこの講習会に出席していた沖縄出身でルーテル神学大学に留学した山里勝一牧師が、韓国への謝罪が問題となっているが沖縄の歴史、教会のことを忘れているのではないか、という指摘がなされた。これは参加者に衝撃を与えた。その後、急速度で日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同辺の準備が進められ69年2月、二つの教会は合同議定書を交わして、今度は教団沖縄教区となった。当時の日本基督教団は20万の信徒、15教区、1700の教会。沖縄キリスト教団は2000人の信徒、24の教会であった。両教会のサイズは全く違うが、しかしここでは「合同」とされた。その意味はそれぞれの独自の異なった歴史的背景をもった独立した教会、教団同士が合同してひとつの教会になるということだ。喜びと涙を分かち合うことがなければ、教会はこの世の企業と同じような論理で生きていることになる。わたしたちの教会は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができるか、それを求めていきたい。

「人たるの名に値するために」

マルコによる福音書2章23-28節

説教 新免 貢 教師

 本日の聖書箇所は、イエスの弟子たちが空腹になって、麦の穂を摘んで食べ始めたという話です。貧しい農村社会におけるのどかな風景を想像させてくれこの話には、当時の宗教上のおきてが関係しています。弟子たちが麦の穂を摘んだのが、労働をしてはいけないと定められた安息日でした。麦の穂を摘むということは労働と見なされていました。弟子たちは、安息日にしてはならないことをやったことになり、それが宗教上の重要なおきてを破ったと当時の陰湿な宗教指導者たちから批判されました。それに対して、イエスが、「安息日という制度は人間のためにできたのであり、人間が安息日という制度のためにできたのではない」と言い放ちました。これは、「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」と言い換えることができます。スカッとするような人間解放宣言です。
 しかし、この発言は、社会の規範や宗教上のおきてを守ることを重視している者たちには、自分たちの存在証明である規則や規範や法律を正面から否定された気になります。こういうことを言い放つと、命も狙われかねません。安息日のおきてを破った場合、死に定められるという掟があったからです。同じ立派な見識ある発言も、命の危険をかけてまで言うのと、命の危険など意識する必要もないところで語るのとでは、ずいぶん差があります。自由や平等をよいことであると考えている私たちが「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」と主張しても、命を失う危険はありません。それどころか「いいことを言うね」と褒められるでしょう。しかし、イエスは踏み込んで、「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」と言い放った時、イエスは命を懸けて言っているのです。これはイエスらしい人間解放宣言です。この宣言により、死んだイエスの存在が今ここによみがえるのです。

「民族の苦闘の中で-カンボジアの教会」

詩編 77編 2~16節

説教 原 誠 牧師

 今朝はカンボジアの教会について語る。カンボジアに関する一般的な認識はポルポト時代に大虐殺が行われたこと、多くの人々が難民となった、アンコール・ワットがある国というあたりだろうか。ポルポト時代には人口700~800万人の時代に100万人から200万人という人びとが殺され、そのなかには教師や医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者らが含まれていた。このカンボジアにもほんのわずかだがキリスト者がいる。資料によればプロテスタントの教会の信徒の数が8万人という。
 18年前に訪れたとき、100を超えるキリスト教の団体がカンボジアで活動をしていた。現在の政治体制は宗教に対しては自由だ。
 プノンペンにあるカンボジア聖書協会で、総主事のヨス・エム・シタン夫人(Mrs. Yos Em Sithan)に会った。彼女は「以前に出版されていたクメール語の聖書は1954年にChristian and Missionary Alliance、CMA、クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスによるものであった。その後(ポルポトによる内戦が終わってから)1998年にカトリックとの共同訳が完成して、現在、毎年10000部が出版され、国内のすべての教会がこれを用いている。わたしは1973年に非合法の家の教会で受洗して以来、厳しい政治情勢のもとで過ごした。89年以後、状況が変わって政府から公認されるようになったが1990年にはプノンペンにはただひとつの教会があったにすぎない」と語ってくれた。
 つまり一応の政治的安定が始まり海外からの援助によって国を建て直そうとしたとき、欧米のキリスト教伝道団体とキリスト教のNGOの活動が開始され、その大部分の活動は極めて保守的なキリスト教によるものであり、その活動はいわば「ライス・クリスチャン」あるいは「サンタクロース・プロジェクト」のようなものであるということである。
 今回、私がコンタクトを取ったのはこれらの教会ではなくカンボジア・クリスチャン・カウンセル(Kampuchea Christian Council、KCC)であった。この教会組織は35の伝道所をもつ自立したほんの15の教会で組織された協議会である。なぜこの協議会とコンタクトを取ったのかといえば、このKCCがカンボジアで唯一CCAに加盟しているからであり、またこの教会の群れが他の教会とは異なり、海外の教会、伝道団体の支援、援助によって成立して活動しているのではなく、カンボジア人によるカンボジア人のための教会を設立しようとしているからである。この教会は、子どもや学生へのミニストリーを重点的に行なって、自分たちの教会は自分たちの足で立つという自立の姿勢が明確である。このKCCのリーダーのイン・チュン(Eang Chhun)牧師はかつては医学部の学生であったが牧師になった。彼の案内で86歳のシェン・アン(Sieng Ang)牧師に会った。彼はポルポト時代にベトナムに亡命していた。突然の訪問であったがとても歓迎してくれ、手を取り合ってともに祈りの時をもった。
 このような困難ななかで、聖書は「あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました」と告げる。これが祈りである。

「国家と宗教-中国のキリスト教」

イザヤ書60章1~4節

説教 原 誠 牧師

 中国のキリスト教についてその歴史と現在の状況について認識を深めたい。現在の中国の人口は14億人であるがキリスト教人口は1億3000万人だといわれている。人口の10%近い。中国の宗教政策は原理的に宗教を認めない。共産主義社会が完成すれば宗教は不要になるという見解だ。現在はその前の段階で一応その存在を認めるものの、国家による厳しい管理と統制の下に置かれている。この枠から逸脱したと考えられたら厳しい統制を受ける。しばらく前に「気功集団」が激しく弾圧されたことがある。チベット自治区のチベット仏教、ウイグル自治区のイスラムの人びとへの統制と弾圧、そして現在進行形である香港の統制、弾圧などを含めて、中国のキリスト教もこれらの諸問題と同様の状況にある。
 中国は宗教を仏教、イスラム、プロテスタントは基督教あるいは耶蘇教、カトリックは天主教という名称で管理している。またプロテスタントは政府の管理下にある教会と管理下にない「家の教会」が、カトリックの場合「地下教会」という存在がある。現在、キリスト教が1億人を超えたという数字は、これらを含めた教会の信徒の数だ。
 中国では「三自愛国運動」という宗教政策がとられている。これは「自治」「自養」「自伝」というもので、欧米のキリスト教団体とは関係せずに中国のキリスト教としてなら存在を認めるというものだ。これに参加しないということは未公認となる。中華人民共和国の成立後、キリスト教は迫害を受け、文化大革命の時代にキリスト教は批判の対象となって壊滅状態になった。その後、改革解放の時代が始まると経済発展が始まり、共産主義イデオロギーの絶対性が崩壊し、それに代わる精神的バックボーンとしてのキリスト教への関心が、特に都市部を中心に進展し始め、農村部や辺境の地域にも拡大していった。
 政府の宗教政策は時に寛容な面が示され、また別な局面では厳しく統制される。現在でも教会堂の焼き討ちなどは頻繁にある。そのことが時に「三自愛国教会」から離脱して「家の教会」に移る、あるいは逆に「家の教会」から「三自愛国教会」に移るということになる。
 わたし自身が経験したことでいえば、以前、南京の有力な大学の神学部を訪ねた後、わたしの行動は公安に完全にマークされていた。会った教授はそのことを公安に報告したからだ。また神学部の教授たちも、自分がキリスト者であるかどうか、どの教会に属しているかは同僚にも話していないという。また中国から同志社の神学部で学んでいた留学生は、中国の郷里に国際電話をしたとき、盗聴されていて北京語で話せと言われたと。このような政策が今も実行されているかどうかはわからないが、中国の教会は国家管理のもとにある。そこにはわたしたちが理解し認識している「信教の自由」、「政教分離」という原則そのものがない。
 イザヤは、バビロンの捕囚から解放されエルサレムに帰還した人びとが、これから破壊されたエルサレムの再建、神殿の再建について示された預言が語られる。「起きよ、光を放て」と。今、中国の未来についてわたしたちは語る言葉を持たない。しかしわたしたちには神の言葉、預言が示される。「信教の自由」、「政教分離」の深く認識したい。

「わたしたちの間に宿られた」

ヨハネによる福音書1章14節-18節

説教 栗原 健 兄

 クリスマスから1か月になります。私たちは今なお、主のご降誕の喜びのうちに生きているでしょうか。それは、毎日の歩みに命を与えるものになっているでしょうか。
 『西部戦線異状なし』(レマルク作)という小説があります。第1次世界大戦の戦場に駆り出されたドイツ青年たちの悲哀を描いた反戦文学の傑作ですが、その中にこのような場面が登場します。主人公のパウル青年は、休暇を得て実家に戻ります。彼は、かつて自分を酔わせてくれた書棚の本を手に取り、再びその陶酔を味わおうとしました。しかし、いくらページをめくっても彼の心は動きません。生の現実、世のイデオロギーの空しさを味わい尽くした彼には、書物はただのおしゃべりにしか感じられなかったのです。「言葉だ、言葉にすぎない…」と彼は絶望します。
 聖書は「神様からのラブレター」だと言われます。しかし、これがもし遠い世界から送られたメッセージだけであれば、私たちもまた、世界の重い現実を前にして、「言葉にすぎない…」と絶望してしまうのではないでしょうか。
  このことを思う時、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)の聖句が大きな力をもって迫って来ます。神が「彼らが私のもとに来られないのなら、私が彼らのもとに行こう」としてこの世界に来られ、私たちの1人となられた。私たちと共に歩まれ、十字架というドン詰まりまで生きられた。その先には復活がある。この知らせがあるために、私たちは自らの中、社会の中に巣食う暗闇を前にしても、なお希望をもって主に向かって歩み続けることが出来るのです。他者と支え合い、共に生きるために働くことが出来るのです。

「人にしてもらいたいことは人にしなさい」

マタイによる福音書 7章7~12節

説教 伊藤 香美子 姉

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」 この聖句は、「測り知ることのできないほど価値のある理想的な倫理原則」、「キリスト教倫理の根本原理を最も適格に表現したもの」として、ヨーロッパでは18世紀以来「黄金律」と呼ばれています。似たような格言は世界中にいろいろありますが、この聖句のように肯定形ではなく、同じような意味で否定形のものもあって、私たちには「己の欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』)はなじみ深いものです。
 この聖句の意味は明白で、ただ実行あるのみです。しかし、これを実行しようとするなら、私にとってこれほど難しい聖句はないのではないかとさえ思われます。先日もこの聖句を実行しようとして、大失敗してしまいました。私はその経験から人の思いを正しく悟ることができない人間であることを思い知らされ、その人に深くおわびし、神様に赦しを祈りました。
 神様の赦しの愛に励まされて、何とか人の思いを正しく悟り、それを実行できる人間になりたいと祈る日々です。

「苦難の歴史をへて-韓国の教会」

詩編46編2~12節

説教 原 誠 牧師

 今朝は日本との関係が深い韓国のキリスト教について紹介したい。現在、韓国のキリスト教は25パーセントといわれる。どうして韓国にこのように多くのキリスト者が生まれたのか、歴史的に振り返ってみよう。ご承知のように韓国は太平洋戦争の終結までの36年間、日本の植民地統治のもとにおかれた。実にこの時代に韓国にキリスト教は根付いた。李王朝は日本よりも遅れて開国しアメリカやカナダの宣教師が活動を開始した。日本のキリスト教の最初のキリスト者たちが武士階級、知識人、豪農商であったのに対して、韓国では大多数の農民やことに農村の女性たちに対して活動し、各地に病院や診療所、学校ができた。宣教師は日本の植民地統治については触れなかったが、しかし日本の植民地統治に対する批判、反発はキリスト者を含む民衆のなかにひろがった。有名な1919年の3・1独立宣言がなされたとき、これに署名した33人の内キリスト者は16名いた。そして3・1独立運動は全国にひろがった。そもそも平壌は「東洋のエルサレム」と言われ、住民の80パーセントがキリスト者という村もあった。植民地統治の時代にキリスト者にとって最も重要な出来事は総督府による神社参拝の強要であった。それはキリスト教の神と天皇を神として礼拝せよ、ということだったからである。これを受け入れられなかった多くのキリスト教の学校や神学校が閉鎖された。1938年、日本のキリスト教の指導者・富田満牧師が平壌を訪れて神社参拝を拒否していた教会に対して「神社は宗教ではない、国家の祭祀である、信教の自由とは関係しない」として神社参拝を強要した。しかしこれに反対した2000名の信徒は投獄され50名は獄死した。
 韓国の歴史的現実において、民衆が苦しみ涙を流していたそのとき、教会はその民衆とともにあった。だからキリスト教は、民衆のなかで信頼をうることになった。
 太平洋戦争が終わったのち朝鮮半島では北と南に分断された。北が共産化したことにより約200万の人たちが南に移った。そのなかに多くのキリスト者が含まれていた。韓国ではアメリカの支援を受けて強力な軍事独裁政権が敷かれた時、キリスト教は反共政策によって優遇されてキリスト者が急激に増加した。北で閉鎖された学校、神学校もソウルで再建された。しかし反共法のもとで市民や労働者の人権の権利が抑圧されるという状況も生まれた。こうした時代背景のもとで生まれたのが「民衆(ミンジュン)の神学」といわれるものだ。キリスト教の福音は、政治の中心、権力の中枢に向かうのではなく、周辺、辺境に向かう。特徴的なのは「ガリラヤ教会」だ。
 韓国の歴史と神の導きをおぼえながら、詩編の「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない」という言葉の意味を深くかみしめ、われわれキリスト者はこの世との和解、そして連帯という業を担っていくものでありたい。

「光の源 ― 新しい時」

ヤコブの手紙1章 12~15節

説教 原 誠 牧師

 新しい2021年を迎え、わたしたちは最初の聖日礼拝に招かれた。新年は、通常、明けましておめでとう、とあいさつを交わす。しかし今年の新年は、世界中がコロナの影響のなかで、恐怖、困惑、不安、分断、不確定のなかにおかれ、将来が見通せない状況で迎えた。
 仙台北教会が発行しているカレンダーの1月の聖句が、今日のテキストだ。そこには「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあり、また「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来る」と記されている。
 旧約聖書のヨブ記17章には、「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか」という言葉がある。なぜ人間は、悪いことをしていないのに、このような苦難や試練にあうのか、理不尽だというヨブの叫び、うめきが、このような言葉で表現されている。どこに希望があるか。やはり旧約聖書の出エジプト記の13章以下には次のように記されている。エジプトを脱出して旅を始めたイスラエルの人びとに対して、神は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは方向を見失うことはなかった。こうして旅を続けたが、しかし飲み物、食べ物のことで不満を持った。水がない。神は、苦い水を甘く変えて与えた。民は、食物のことでも不満の声をあげた。エジプトにいた時は奴隷の時代であっても、あの時は肉のたくさん入った鍋を、またパンを腹一杯食べることができたのに、今、飢え死にしようとしていると。このとき、神は彼らにマナを与えた。それは蜜の入ったウェファースのような味がした、とある。神はその民を決して見捨てず、進むべき道を照らし、導き、民の生命を確実に保った。神はいつも不平、不満をもつ民に絶対的な導きと保証を与えた。いつも時代も、たとえ満たされている時代であっても、わたしたちは不足を漏らし、不平を述べる。その人間の現実のなかにおいて、そして、それらに加えて、今、わたしたちはコロナ禍のただなかで明るい未来を展望することができないでいる。確信することが困難な時を刻んでいる。
 そのようななかで、わたしたちは今日の聖書の箇所に似たような聖書の箇所を知っている。ローマの信徒への手紙5章には「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉がある。またコリント人への第二の手紙4章には「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という言葉を知っている。
 わたしたちの信仰は、わたし個人の安心立命のためではなく、イエスを通してわたしたちに示される神が、わたしたち一人一人の重荷をおうてともに歩んでくださる、という信仰である。
 そして、今、わたしたちは聖書が告げる「時」について、その言葉の意味を知る。クロノスとカイロスだ。カレンダーはクロノスとして2021年を迎えた。しかし、わたしたちは信仰によって、神がわたしたちの人生の全生活領域に介入し、新しい世界観のもとで「時」をともに生きる信仰が与えられていることを知る。わたしたちは、この世から召し集められ、この礼拝から派遣される。

「クリスマスの本当の意味」

創世記28章15節
マタイによる福音書1章23節

説教 北 博 兄

 厳密に言えば12月25日は、イエス・キリストの誕生日ではない。正しくは、イエス・キリストのご降誕を祝う日、ということになる。しかも、それが12月25日に祝われるようになったのは、やっと4世紀になってからである。そもそも初期のキリスト教の主な関心は誕生ではなく、圧倒的にイエス・キリストの十字架の死と復活だった。  
 クリスマスが当初から異教的で世俗的な性格を持っていたことは事実である。しかしそのことが、逆にすべての人の救い主としてのイエス・キリストを非常に分かり易い形で際立たせ、教会と世との懸け橋としての役割を果たしてきたこともまた確かなのではないだろうか。今後クリスマスは、この観点からその重要性が改めて見直されてもいいのではないか。
 クリスマスとは何か。それは、救い主が私達のこの世界にお出でになったことを祝う、喜びの時である。それはインマヌエル、神は我々と共におられるという約束の証として実現した。救い主は、この苦しみに満ちた世俗世界の真っただ中に産み落とされ、汚い馬小屋の飼い葉桶の中に置かれた。
 救い主は、矛盾に満ちた世俗世界の真っ只中へ、特に社会の中で差別され疎んじられている異邦人や異教徒、それに社会の底辺で苦しんでいるすべての人々の許へと遣わされた。インマヌエルなる救い主の誕生は、すべての隔ての垣根を打ち壊し、すべての人を救おうとする、全人類に対する神のご計画の現われである。そのことに感謝し、このご計画の一端に与れるよう願いつつ、この時を過ごしたい。