「罪と赦し」

ローマの信徒への手紙7章15~25節
フィリピの信徒への手紙2章6~8節

説教 北 博 兄

 キリスト教の罪は、アウグスティヌスが打ち立てた原罪の教理によれば、人間の本性に必然的に備わっているものである。罪は無意識の世界と似てはいないか。無意識の世界は実体として実証的に把握することはできないが、実感としてはまぎれもなく自分の一部として存在している。罪もこれと同じではないだろうか。自分の中には他者への献身的で自己犠牲的な愛といった崇高な指向性と同時に、潜在的には憎悪や嫉妬といった暴力的な指向性も確実に存在しており、どちらも正義感と結びついて顕在化する。そしてどうもこれはどの人間にも共通しており、そう言った二重の指向性が社会をも動かしているらしい。罪は実体的に把握できるものではない。それでも罪は、確実に存在する。それは個人的にも社会的にも悪という形で表面化し、個々の悪を通して言わば状況証拠的に認識できる。

 それではどうやって罪と向き合うべきか。様々な差別や迫害、暴力、不正、それに環境破壊、これは皆目には見えない罪のなせるわざであり、社会の問題であると同時に、根本的にはその元凶である自分自身の問題であり、課題である。多くの人々と力を合わせて、罪の表れである社会悪と一つ一つ戦っていく中で、自分自身の罪とも向き合うことになるのではないだろうか。

 キリストは私達の罪のために今も十字架上で血を流し続けており、差別や暴力の犠牲者という形を取って、日々私達と出会われている。