「わたしたちの間に宿られた」

ヨハネによる福音書1章14節-18節

説教 栗原 健 兄

 クリスマスから1か月になります。私たちは今なお、主のご降誕の喜びのうちに生きているでしょうか。それは、毎日の歩みに命を与えるものになっているでしょうか。
 『西部戦線異状なし』(レマルク作)という小説があります。第1次世界大戦の戦場に駆り出されたドイツ青年たちの悲哀を描いた反戦文学の傑作ですが、その中にこのような場面が登場します。主人公のパウル青年は、休暇を得て実家に戻ります。彼は、かつて自分を酔わせてくれた書棚の本を手に取り、再びその陶酔を味わおうとしました。しかし、いくらページをめくっても彼の心は動きません。生の現実、世のイデオロギーの空しさを味わい尽くした彼には、書物はただのおしゃべりにしか感じられなかったのです。「言葉だ、言葉にすぎない…」と彼は絶望します。
 聖書は「神様からのラブレター」だと言われます。しかし、これがもし遠い世界から送られたメッセージだけであれば、私たちもまた、世界の重い現実を前にして、「言葉にすぎない…」と絶望してしまうのではないでしょうか。
  このことを思う時、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)の聖句が大きな力をもって迫って来ます。神が「彼らが私のもとに来られないのなら、私が彼らのもとに行こう」としてこの世界に来られ、私たちの1人となられた。私たちと共に歩まれ、十字架というドン詰まりまで生きられた。その先には復活がある。この知らせがあるために、私たちは自らの中、社会の中に巣食う暗闇を前にしても、なお希望をもって主に向かって歩み続けることが出来るのです。他者と支え合い、共に生きるために働くことが出来るのです。

2021年1月24日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「人にしてもらいたいことは人にしなさい」

マタイによる福音書 7章7~12節

説教 伊藤 香美子 姉

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」 この聖句は、「測り知ることのできないほど価値のある理想的な倫理原則」、「キリスト教倫理の根本原理を最も適格に表現したもの」として、ヨーロッパでは18世紀以来「黄金律」と呼ばれています。似たような格言は世界中にいろいろありますが、この聖句のように肯定形ではなく、同じような意味で否定形のものもあって、私たちには「己の欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』)はなじみ深いものです。
 この聖句の意味は明白で、ただ実行あるのみです。しかし、これを実行しようとするなら、私にとってこれほど難しい聖句はないのではないかとさえ思われます。先日もこの聖句を実行しようとして、大失敗してしまいました。私はその経験から人の思いを正しく悟ることができない人間であることを思い知らされ、その人に深くおわびし、神様に赦しを祈りました。
 神様の赦しの愛に励まされて、何とか人の思いを正しく悟り、それを実行できる人間になりたいと祈る日々です。

2021年1月17日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「苦難の歴史をへて-韓国の教会」

詩編46編2~12節

説教 原 誠 牧師

 今朝は日本との関係が深い韓国のキリスト教について紹介したい。現在、韓国のキリスト教は25パーセントといわれる。どうして韓国にこのように多くのキリスト者が生まれたのか、歴史的に振り返ってみよう。ご承知のように韓国は太平洋戦争の終結までの36年間、日本の植民地統治のもとにおかれた。実にこの時代に韓国にキリスト教は根付いた。李王朝は日本よりも遅れて開国しアメリカやカナダの宣教師が活動を開始した。日本のキリスト教の最初のキリスト者たちが武士階級、知識人、豪農商であったのに対して、韓国では大多数の農民やことに農村の女性たちに対して活動し、各地に病院や診療所、学校ができた。宣教師は日本の植民地統治については触れなかったが、しかし日本の植民地統治に対する批判、反発はキリスト者を含む民衆のなかにひろがった。有名な1919年の3・1独立宣言がなされたとき、これに署名した33人の内キリスト者は16名いた。そして3・1独立運動は全国にひろがった。そもそも平壌は「東洋のエルサレム」と言われ、住民の80パーセントがキリスト者という村もあった。植民地統治の時代にキリスト者にとって最も重要な出来事は総督府による神社参拝の強要であった。それはキリスト教の神と天皇を神として礼拝せよ、ということだったからである。これを受け入れられなかった多くのキリスト教の学校や神学校が閉鎖された。1938年、日本のキリスト教の指導者・富田満牧師が平壌を訪れて神社参拝を拒否していた教会に対して「神社は宗教ではない、国家の祭祀である、信教の自由とは関係しない」として神社参拝を強要した。しかしこれに反対した2000名の信徒は投獄され50名は獄死した。
 韓国の歴史的現実において、民衆が苦しみ涙を流していたそのとき、教会はその民衆とともにあった。だからキリスト教は、民衆のなかで信頼をうることになった。
 太平洋戦争が終わったのち朝鮮半島では北と南に分断された。北が共産化したことにより約200万の人たちが南に移った。そのなかに多くのキリスト者が含まれていた。韓国ではアメリカの支援を受けて強力な軍事独裁政権が敷かれた時、キリスト教は反共政策によって優遇されてキリスト者が急激に増加した。北で閉鎖された学校、神学校もソウルで再建された。しかし反共法のもとで市民や労働者の人権の権利が抑圧されるという状況も生まれた。こうした時代背景のもとで生まれたのが「民衆(ミンジュン)の神学」といわれるものだ。キリスト教の福音は、政治の中心、権力の中枢に向かうのではなく、周辺、辺境に向かう。特徴的なのは「ガリラヤ教会」だ。
 韓国の歴史と神の導きをおぼえながら、詩編の「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない」という言葉の意味を深くかみしめ、われわれキリスト者はこの世との和解、そして連帯という業を担っていくものでありたい。

2021年1月10日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「光の源 ― 新しい時」

ヤコブの手紙1章 12~15節

説教 原 誠 牧師

 新しい2021年を迎え、わたしたちは最初の聖日礼拝に招かれた。新年は、通常、明けましておめでとう、とあいさつを交わす。しかし今年の新年は、世界中がコロナの影響のなかで、恐怖、困惑、不安、分断、不確定のなかにおかれ、将来が見通せない状況で迎えた。
 仙台北教会が発行しているカレンダーの1月の聖句が、今日のテキストだ。そこには「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあり、また「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来る」と記されている。
 旧約聖書のヨブ記17章には、「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか」という言葉がある。なぜ人間は、悪いことをしていないのに、このような苦難や試練にあうのか、理不尽だというヨブの叫び、うめきが、このような言葉で表現されている。どこに希望があるか。やはり旧約聖書の出エジプト記の13章以下には次のように記されている。エジプトを脱出して旅を始めたイスラエルの人びとに対して、神は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは方向を見失うことはなかった。こうして旅を続けたが、しかし飲み物、食べ物のことで不満を持った。水がない。神は、苦い水を甘く変えて与えた。民は、食物のことでも不満の声をあげた。エジプトにいた時は奴隷の時代であっても、あの時は肉のたくさん入った鍋を、またパンを腹一杯食べることができたのに、今、飢え死にしようとしていると。このとき、神は彼らにマナを与えた。それは蜜の入ったウェファースのような味がした、とある。神はその民を決して見捨てず、進むべき道を照らし、導き、民の生命を確実に保った。神はいつも不平、不満をもつ民に絶対的な導きと保証を与えた。いつも時代も、たとえ満たされている時代であっても、わたしたちは不足を漏らし、不平を述べる。その人間の現実のなかにおいて、そして、それらに加えて、今、わたしたちはコロナ禍のただなかで明るい未来を展望することができないでいる。確信することが困難な時を刻んでいる。
 そのようななかで、わたしたちは今日の聖書の箇所に似たような聖書の箇所を知っている。ローマの信徒への手紙5章には「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉がある。またコリント人への第二の手紙4章には「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という言葉を知っている。
 わたしたちの信仰は、わたし個人の安心立命のためではなく、イエスを通してわたしたちに示される神が、わたしたち一人一人の重荷をおうてともに歩んでくださる、という信仰である。
 そして、今、わたしたちは聖書が告げる「時」について、その言葉の意味を知る。クロノスとカイロスだ。カレンダーはクロノスとして2021年を迎えた。しかし、わたしたちは信仰によって、神がわたしたちの人生の全生活領域に介入し、新しい世界観のもとで「時」をともに生きる信仰が与えられていることを知る。わたしたちは、この世から召し集められ、この礼拝から派遣される。

「クリスマスの本当の意味」

創世記28章15節
マタイによる福音書1章23節

説教 北 博 兄

 厳密に言えば12月25日は、イエス・キリストの誕生日ではない。正しくは、イエス・キリストのご降誕を祝う日、ということになる。しかも、それが12月25日に祝われるようになったのは、やっと4世紀になってからである。そもそも初期のキリスト教の主な関心は誕生ではなく、圧倒的にイエス・キリストの十字架の死と復活だった。  
 クリスマスが当初から異教的で世俗的な性格を持っていたことは事実である。しかしそのことが、逆にすべての人の救い主としてのイエス・キリストを非常に分かり易い形で際立たせ、教会と世との懸け橋としての役割を果たしてきたこともまた確かなのではないだろうか。今後クリスマスは、この観点からその重要性が改めて見直されてもいいのではないか。
 クリスマスとは何か。それは、救い主が私達のこの世界にお出でになったことを祝う、喜びの時である。それはインマヌエル、神は我々と共におられるという約束の証として実現した。救い主は、この苦しみに満ちた世俗世界の真っただ中に産み落とされ、汚い馬小屋の飼い葉桶の中に置かれた。
 救い主は、矛盾に満ちた世俗世界の真っ只中へ、特に社会の中で差別され疎んじられている異邦人や異教徒、それに社会の底辺で苦しんでいるすべての人々の許へと遣わされた。インマヌエルなる救い主の誕生は、すべての隔ての垣根を打ち壊し、すべての人を救おうとする、全人類に対する神のご計画の現われである。そのことに感謝し、このご計画の一端に与れるよう願いつつ、この時を過ごしたい。

2020年12月27日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

クリスマス礼拝「泊まる場所がなかった」

ルカによる福音書 2章 6~7節

説教 原 誠 牧師

 今年のクリスマスはコロナ禍の只中、今までのクリスマスとは全く趣がちがう。しかし2000年の歴史のなかで、いつも心温まるクリスマスばかりではなかった。
 およそ2000年前、パレスチナの片隅のベツレヘムという小さな村で生まれた一人の赤ん坊、そして聖書が伝えるのは生まれるために「場所がなかった」ということだ。
このクリスマスに関する聖書の箇所は、ほんの少しで、そこから知ることができるのは、当時のユダヤは小さな国で、独立国ではなくローマ帝国の属国であった時代にヨセフとマリヤという夫婦がローマ帝国の人頭税の調査のために自分たちの出身地であるベツレヘムに向かって旅をさせられていたその最中に、初めての子どもを生んだが「場所がなかった」と記されたようなできごとであった。
 洋の東西を問わず、人びとはできるかぎりの最善を尽くして出産に備える。そこには「未来のための生命の誕生」があるのだから。しかし庶民である人々は大きな政治的な社会の枠組みから自由ではありえなかった。大きな権力によって「旅」を強いられ、その最中に宿に到着しても泊まる部屋もなく出産し、その赤子は家畜と同じように「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」なければならなかった。
 この出来事は、ほとんど喜びや希望、未来ということについて思いを馳せるようなことではなく、全く絶望的な出来事であったと言わねばならない。生まれてくるのに「場所がない」のだから。生まれて来ない方が良かった、生まれても意味がない、この世には希望もない、光もない。
 今日、コロナの猛威によって、健康がむしばまれ、生命を失い、仕事を失い、家庭が崩壊し、感染するのではないか、感染させるのではないかという恐怖、そして現実として医療従事者への極端な労働の加重が起こり、医療崩壊が現実のものとなり、人びととの間に分断が起こる。平等、公正、正義、平安という言葉の意味と、その実現が、本当に求められている。どこに正義が、平和が、希望が、感謝が、喜びがあるか。「場所はあるのか。」
 マタイによる福音書のイエスの誕生を記した箇所では、この一人の赤ん坊の誕生を巡り、ヘロデは自分の政治的地位を危うくする存在の誕生を危険と見て2才以下の男の子を皆殺しにし、そしてヨセフとマリヤ、イエスはエジプトに逃れた、つまり難民になった。この世の権力者は、場所だけではなく生命をも奪う。
 「泊まる場所がなかった」にもかかわらず新しい生命が生まれた。否、神はそのような現実のなかに「介入した」。これがクリスマスのメッセージだ。この「介入」は、神の愛であるか、神の涙とともに怒りの「介入」であるか。あるいは神が我々の人間の世界と和解のために「介入」した神の業であるか。
 クリスマスとは、このようなそれぞれの現実の中に、神が一方的に「居場所がない」場所にイエスを誕生させたという出来事である。それはこの出来事がこの世に喜ばれようが、喜ばれまいが、われわれが歓迎しようがしまいが、神の意志によって神の計画によって、我々の歴史に「イエス・キリスト」を生まれさせ、そしてこの世を救う、という事業を開始した、ということであった。ここに希望がある。

2020年12月20日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「信仰におけるつまずき」

ローマの信徒への手紙16章25~27節
マタイによる福音書13章53~58節

説教 原 誠 牧師

 イエスの宣教活動は、当時の人びとのなかに広く知れ渡るものであった。そして大勢の群衆が来てイエスに従う状況であった。イエスの説教の特徴は、たとえを用いるところにあった。その意味は、今日の言葉で言えば天の国、すなわち真理について学ぶということは、神の言葉を伝統や権威のなかに塗り込めてお題目のように硬直化して繰り返していくのではなく、新しい状況のなかで柔軟にその本質をつかみ取り読み直していくこと、再解釈をしていくことが大切だということであった。
 そしてイエスは故郷に帰った。しかしイエスはナザレでは受け入れられなかったと記している。イエスはナザレで育ち、仕事をした。大工であったイエスの仕事は、おそらく近隣の町や村に出かける出張の仕事であっただろう。そしてイエスはおよそ30歳のころナザレから出て、新しい宣教の活動を始めた。そして評判になったにもかかわらず、ナザレの村人は受け入れない。イエスの生育過程を熟知しているから、評判になったとはいえ額面通り以上には受け入れることができないという心理的ブレーキ、抵抗、制約があったであろう容易に想像できる。
 そのナザレの村人たちもまた、一般的には平均的なユダヤ人として「メシア」を待ち望んでいただろう。その「メシア」のイメージは、ユダヤ民族の独立、神の支配の完成であり、当然、異民族であるローマの支配からの解放、そして政治的メシア、すなわち軍事的、政治的な、ユダヤ民族主義に基づくメシアのイメージであっただろう。そこには目の前にいる、子ども時代から熟知しているイエスとは「メシア」のイメージとのギャップがあった。今日の聖書の箇所のルカによる福音書の並行記事4章21節では「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とある。イエスのこの決定的な宣言を、しかし人びとは受け入れられなかった。
 人びとは、そしてわたしたちは、自分の理想をメシア像に投影する。今日的なイメージではアイドルを作りあげる。そのイメージからはずれると、人びとはそれを認めず拒絶する。ナザレの人びとはイエスにつまずいた。聖書はそれを「不信仰」だと記す。
 事柄を事柄として、語られたことを語られたこととして、現実に目の前で起こっている事に起こっている事実を知っても、これを受け入れず、正面から向き合うことができない、受け入れることができない村人がいた。「人びとはイエスにつまずいた」とある。「メシア」を待ち望むその心がいかに信仰深くあろうとも、自分が作ったイメージを絶対として、これによって判断することになれば、実は、信仰深く自分が神となっていく、ということになる。ローマの信徒への手紙のなかで16章26節「その計画は今や現され」たとある。
 自分で作り上げた偶像のような、しかも信仰深くかたくなな固定的なものが、決定的にそして徹底的に打ち壊され、わたしたちはイエスの到来を待ち望む心、その空間、その場所を開けておきたい。わたしたちのどこに神の支配、福音の出来事を迎えることができるのか。アドベントの時を、今、歩んでいる。

2020年12月6日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

アドベント第1主日「耐え忍ぶ者は救われる」

マタイによる福音書24章3~14節

説教 原 誠 牧師

 今年のアドベントとクリスマスは、1年前には考えられもしない状況のなかで迎える。
日本社会のみならず全世界がコロナの影響によって深刻な状況に遭遇して以来、わたしは密かに恐れていたことがある。それはコロナの蔓延を神の裁きとして受け止める解釈が起こるのではないかということだった。旧約聖書の出エジプト記に記される疫病、災難は、神を信じないファラオに対して下された裁きとして記される。このような理解はキリスト教のなかにもある。しかし幸いなことに、今日、このような考え方や受け止め方は寡聞にして聞かない。
 東京の富坂キリスト教センターで始められたプロジェクトでは、100年前のスペイン風邪(1918~20、大正7~9年)が大流行したとき、日本の教会はどうであったのか、それらを資料に基づいて検討しようとするものだ。しかしこれに関する資料は極めて少ない。そのなかで興味を引くのは内村鑑三が、戦争(第一次世界大戦)、飢饉(米騒動)、疫病(スペイン風邪)、地震(やがて来る関東大震災)を、神の審判(再臨)の予兆としてあげていることだ。またホーリネス教会では不信仰の罪が今、裁かれているという見解がみられる。今、そのような見方でコロナを受け止めることがないということは幸いだ。
とはいえ今日、わたしたちは厳しい状況のなかで、アドベントの礼拝のなかで聖書の言葉に耳を傾け、現実の社会の有り様に深く目を配る。そしていつの時代も弱い立場の者に対して、問題はより重層化して凝縮していくことに変わりはないように見える。コロナによってわたしたちの社会の営みの根本が赤裸々に明らかになってきていると言える。
今日、読んだマタイによる福音書では、この24章、25章から終末に関する言葉がまとめられて記され、今日の箇所はその最初の記述である。
 弟子たちが「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と問う。弟子たちも、わたしたちも、この世の終わり、終末に深い強い関心をもつ。その答えは「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい」と。今、そのような混乱、見通せない将来のなかで、わたしたちは疑心暗鬼になる。しかし聖書は告げる。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。そして、さらにわたしたちクリスチャンにとって最も大切なことは、終末、この世の終わり、ということは、恐るべきこと、避けたいことでは決してない、ということだ。
 「それから終わりが来る」ということに対して、わたしたちにとっては真に待ち望むことだからだ。わたしたちは終末を待ち望む群れだ。終末とは、神の支配の完成、成就ということなのだから。わたしたちは「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」という信仰を「告白」する。わたしたちは終末を待ち望む群れである。

2020年11月29日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「真珠を求めているのは誰?」

マタイによる福音書13章44‐46節

説教 栗原 健 兄

 聖書を読む時に大切なことは、すぐに「反省」の材料を探そうとするのではなく、自分に対する神の愛、恵みの告知をじっくり探すことです。今日の聖書箇所、「畑の宝」「高価な真珠」のたとえを読むと、私たちは、「この宝を見つけた人や商人のように、私は神のために全てを捧げる生き方をしているだろうか。十分していない。反省!」となりがちです。しかし、その前にこのたとえをよく味わってみましょう。
「神の国」とは、「神と人が正しい関係にある状態」です。主イエスを知り、主が望むように生きようとしている状態を指すと言うことが出来るでしょう。そう考えると、このたとえは主イエスとの2種類の出会いを描いていることが分かります。「畑の宝」は、自ら強く求めていなくても突然恵みによって主に導かれる形。「高価な真珠」は、熱心に真理を探求した末にたどり着く形です。
 ここで、このイメージをぐるっとひっくり返してみましょう。確かに、私たちにとって主イエスは宝であり真珠です。しかし、主もまた私たちのことを宝のように見て、高価な真珠のように私たちを必死に探し求め、そのために全てを投げ打ちました。そのことを示すのが、主の十字架です。そのように求められ、愛されているからこそ、私たちも主イエスに出会い、その歩みに魅了され、神のために生きる者となるのです。同じように主に愛されている他者とも連帯して行けるのです。来週から始まるアドベントを前に、この恵みをまず目の前に置きましょう。

2020年11月22日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者