クリスマス礼拝「泊まる場所がなかった」

ルカによる福音書 2章 6~7節

説教 原 誠 牧師

 今年のクリスマスはコロナ禍の只中、今までのクリスマスとは全く趣がちがう。しかし2000年の歴史のなかで、いつも心温まるクリスマスばかりではなかった。
 およそ2000年前、パレスチナの片隅のベツレヘムという小さな村で生まれた一人の赤ん坊、そして聖書が伝えるのは生まれるために「場所がなかった」ということだ。
このクリスマスに関する聖書の箇所は、ほんの少しで、そこから知ることができるのは、当時のユダヤは小さな国で、独立国ではなくローマ帝国の属国であった時代にヨセフとマリヤという夫婦がローマ帝国の人頭税の調査のために自分たちの出身地であるベツレヘムに向かって旅をさせられていたその最中に、初めての子どもを生んだが「場所がなかった」と記されたようなできごとであった。
 洋の東西を問わず、人びとはできるかぎりの最善を尽くして出産に備える。そこには「未来のための生命の誕生」があるのだから。しかし庶民である人々は大きな政治的な社会の枠組みから自由ではありえなかった。大きな権力によって「旅」を強いられ、その最中に宿に到着しても泊まる部屋もなく出産し、その赤子は家畜と同じように「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」なければならなかった。
 この出来事は、ほとんど喜びや希望、未来ということについて思いを馳せるようなことではなく、全く絶望的な出来事であったと言わねばならない。生まれてくるのに「場所がない」のだから。生まれて来ない方が良かった、生まれても意味がない、この世には希望もない、光もない。
 今日、コロナの猛威によって、健康がむしばまれ、生命を失い、仕事を失い、家庭が崩壊し、感染するのではないか、感染させるのではないかという恐怖、そして現実として医療従事者への極端な労働の加重が起こり、医療崩壊が現実のものとなり、人びととの間に分断が起こる。平等、公正、正義、平安という言葉の意味と、その実現が、本当に求められている。どこに正義が、平和が、希望が、感謝が、喜びがあるか。「場所はあるのか。」
 マタイによる福音書のイエスの誕生を記した箇所では、この一人の赤ん坊の誕生を巡り、ヘロデは自分の政治的地位を危うくする存在の誕生を危険と見て2才以下の男の子を皆殺しにし、そしてヨセフとマリヤ、イエスはエジプトに逃れた、つまり難民になった。この世の権力者は、場所だけではなく生命をも奪う。
 「泊まる場所がなかった」にもかかわらず新しい生命が生まれた。否、神はそのような現実のなかに「介入した」。これがクリスマスのメッセージだ。この「介入」は、神の愛であるか、神の涙とともに怒りの「介入」であるか。あるいは神が我々の人間の世界と和解のために「介入」した神の業であるか。
 クリスマスとは、このようなそれぞれの現実の中に、神が一方的に「居場所がない」場所にイエスを誕生させたという出来事である。それはこの出来事がこの世に喜ばれようが、喜ばれまいが、われわれが歓迎しようがしまいが、神の意志によって神の計画によって、我々の歴史に「イエス・キリスト」を生まれさせ、そしてこの世を救う、という事業を開始した、ということであった。ここに希望がある。

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