「光の源 ― 新しい時」

ヤコブの手紙1章 12~15節

説教 原 誠 牧師

 新しい2021年を迎え、わたしたちは最初の聖日礼拝に招かれた。新年は、通常、明けましておめでとう、とあいさつを交わす。しかし今年の新年は、世界中がコロナの影響のなかで、恐怖、困惑、不安、分断、不確定のなかにおかれ、将来が見通せない状況で迎えた。
 仙台北教会が発行しているカレンダーの1月の聖句が、今日のテキストだ。そこには「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあり、また「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来る」と記されている。
 旧約聖書のヨブ記17章には、「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか」という言葉がある。なぜ人間は、悪いことをしていないのに、このような苦難や試練にあうのか、理不尽だというヨブの叫び、うめきが、このような言葉で表現されている。どこに希望があるか。やはり旧約聖書の出エジプト記の13章以下には次のように記されている。エジプトを脱出して旅を始めたイスラエルの人びとに対して、神は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは方向を見失うことはなかった。こうして旅を続けたが、しかし飲み物、食べ物のことで不満を持った。水がない。神は、苦い水を甘く変えて与えた。民は、食物のことでも不満の声をあげた。エジプトにいた時は奴隷の時代であっても、あの時は肉のたくさん入った鍋を、またパンを腹一杯食べることができたのに、今、飢え死にしようとしていると。このとき、神は彼らにマナを与えた。それは蜜の入ったウェファースのような味がした、とある。神はその民を決して見捨てず、進むべき道を照らし、導き、民の生命を確実に保った。神はいつも不平、不満をもつ民に絶対的な導きと保証を与えた。いつも時代も、たとえ満たされている時代であっても、わたしたちは不足を漏らし、不平を述べる。その人間の現実のなかにおいて、そして、それらに加えて、今、わたしたちはコロナ禍のただなかで明るい未来を展望することができないでいる。確信することが困難な時を刻んでいる。
 そのようななかで、わたしたちは今日の聖書の箇所に似たような聖書の箇所を知っている。ローマの信徒への手紙5章には「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉がある。またコリント人への第二の手紙4章には「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」という言葉を知っている。
 わたしたちの信仰は、わたし個人の安心立命のためではなく、イエスを通してわたしたちに示される神が、わたしたち一人一人の重荷をおうてともに歩んでくださる、という信仰である。
 そして、今、わたしたちは聖書が告げる「時」について、その言葉の意味を知る。クロノスとカイロスだ。カレンダーはクロノスとして2021年を迎えた。しかし、わたしたちは信仰によって、神がわたしたちの人生の全生活領域に介入し、新しい世界観のもとで「時」をともに生きる信仰が与えられていることを知る。わたしたちは、この世から召し集められ、この礼拝から派遣される。

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