「信仰におけるつまずき」

ローマの信徒への手紙16章25~27節
マタイによる福音書13章53~58節

説教 原 誠 牧師

 イエスの宣教活動は、当時の人びとのなかに広く知れ渡るものであった。そして大勢の群衆が来てイエスに従う状況であった。イエスの説教の特徴は、たとえを用いるところにあった。その意味は、今日の言葉で言えば天の国、すなわち真理について学ぶということは、神の言葉を伝統や権威のなかに塗り込めてお題目のように硬直化して繰り返していくのではなく、新しい状況のなかで柔軟にその本質をつかみ取り読み直していくこと、再解釈をしていくことが大切だということであった。
 そしてイエスは故郷に帰った。しかしイエスはナザレでは受け入れられなかったと記している。イエスはナザレで育ち、仕事をした。大工であったイエスの仕事は、おそらく近隣の町や村に出かける出張の仕事であっただろう。そしてイエスはおよそ30歳のころナザレから出て、新しい宣教の活動を始めた。そして評判になったにもかかわらず、ナザレの村人は受け入れない。イエスの生育過程を熟知しているから、評判になったとはいえ額面通り以上には受け入れることができないという心理的ブレーキ、抵抗、制約があったであろう容易に想像できる。
 そのナザレの村人たちもまた、一般的には平均的なユダヤ人として「メシア」を待ち望んでいただろう。その「メシア」のイメージは、ユダヤ民族の独立、神の支配の完成であり、当然、異民族であるローマの支配からの解放、そして政治的メシア、すなわち軍事的、政治的な、ユダヤ民族主義に基づくメシアのイメージであっただろう。そこには目の前にいる、子ども時代から熟知しているイエスとは「メシア」のイメージとのギャップがあった。今日の聖書の箇所のルカによる福音書の並行記事4章21節では「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とある。イエスのこの決定的な宣言を、しかし人びとは受け入れられなかった。
 人びとは、そしてわたしたちは、自分の理想をメシア像に投影する。今日的なイメージではアイドルを作りあげる。そのイメージからはずれると、人びとはそれを認めず拒絶する。ナザレの人びとはイエスにつまずいた。聖書はそれを「不信仰」だと記す。
 事柄を事柄として、語られたことを語られたこととして、現実に目の前で起こっている事に起こっている事実を知っても、これを受け入れず、正面から向き合うことができない、受け入れることができない村人がいた。「人びとはイエスにつまずいた」とある。「メシア」を待ち望むその心がいかに信仰深くあろうとも、自分が作ったイメージを絶対として、これによって判断することになれば、実は、信仰深く自分が神となっていく、ということになる。ローマの信徒への手紙のなかで16章26節「その計画は今や現され」たとある。
 自分で作り上げた偶像のような、しかも信仰深くかたくなな固定的なものが、決定的にそして徹底的に打ち壊され、わたしたちはイエスの到来を待ち望む心、その空間、その場所を開けておきたい。わたしたちのどこに神の支配、福音の出来事を迎えることができるのか。アドベントの時を、今、歩んでいる。

2020年12月6日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者