東日本大震災記念礼拝「御顔こそ、わたしの救い」

詩編42編 2~12節

説教 原 誠 牧師

 今朝、わたしたちは10年前の2011年3月11日の東日本大震災を憶えて礼拝を守る。
 地震と津波、そして原発の事故がわたしたちにもたらした出来事の前で、今を生きている。そしてたしたちはそのなかにあって、一人一人キリスト者としての信仰を持つもの、あるいは広く宗教者として、このできごとをどのように受け止めるのか、今朝、ともにみ言葉から受け止めたい。
 わたしは昨年3月、仙台フィルが避難所などで演奏するテレビの番組を見た。仙台の仏教寺院を会場にしてアヴェ・マリアの曲が流れた。それを歌っていたのは菅英三子さんだった。歌に聞き入っていた人びとは宗教の違いを超え、信仰の有る無しを超えて、涙を流しながら歌に耳を、そして心と魂を傾けていたシーンを憶えている。
 今朝、限られた時間であるが、端的に二つのことを、ほぼ結論的に述べる。
ひとつは神義論に関する議論に関するものだ。なぜ地震、津波が起こるのか。もう一つは創造論に関わる議論だ。
 神義論とは「もし神が正しいなら、なぜ悪があるか、災難、不公平があるか」、「なぜ神に忠実なものが苦しまなければならないのか」という問いに、神はどう答えるのかという議論だ。わたしたちは、この震災が人間の傲慢に対する神の裁きだという理解には決して与しない。そしてこの議論については、(1)われわれはこの問いに答えられない。(2)しかし、この場合、地震、津波などの「10年前」における犠牲者(生命、家族、職場、地域共同体)への「祈り」を取り上げない神学(信仰)はない。神はその現実のただなかに生きて働いている。(3)だからこの問題は、答えのないままで問い続けられなければならない。これが神議論に関する達し得た現実である。そしてそれは自分の思いや願いを実現してくれるのが神であるという切実な祈り、うめきであっても、それがいかに敬虔な信仰から生み出されたものであっても、それは実は信仰深くわたしが神になるということになろう。神のみが神である、ということに対して徹底的に謙遜にされるということである。
もうひとつは創造論に関わる。原子力や地球の温暖化を含めたわれわれの科学技術と文明に関わる理解だ。聖書はこのようにわれわれが築き上げてきた近代の文明に対して、神は人間に何を命じているか、ということだ。創世記1章の神の天地創造の物語のなかで、神は人間を創造し、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」とある。神は人間に管理を委ねた。われわれ人間はIMAGO DEI(神の似像)である。わたしたちは、人間の欲望が科学技術を開発し、その恩恵を享受してきたが、その根本のところでわれわれは神によって創造された被創物であることを深く心に刻みたい。神からの委託に応えるということは、徹底的に謙虚になることだ。
神議論と創造論という二つの重要なキリスト教の思想のただなかで、わたしたちは10年を憶えつつ、現在の状況を深く憶え、その課題を担っていく使命を果たしていきたい。