ヤコブの手紙1章2~8節
説教 原 誠 牧師
今、わたしたちはコロナの影響によって制約を受けた状況で礼拝を守っている。歴史のなかで教会は困難な現実に遭遇したときに、常に聖書にもどって「再読」をし続けてきた。もし、今、わたしたちが聖書を「再解釈」できなくなれば、キリスト教は存在意義を失い、賞味期限切れとなり、博物館にいくことになる。わたしたちは、今日も「信仰の告白」を行う。イエスは主であり、イエスは復活して今も生きて働いているという信仰である。そしてわたしたちはその「証人」である。
「宗教」という言葉について考えたい。日本には古来、宗教という言葉はなかったが、明治期に「宗教」という言葉が翻訳された。宗教とはラテン語のReligioに基因し、それが英語でReligionとなった。その語源的意味は、re-legere、再読、反復吟味、選び取る、整理する、という意味である。常に原点に帰り、聖書にもどり、そして現在の我々に聖書がどのようなメッセージを発し続けているか、今日、福音とはなにか、それが宗教ということだ。「イエスは主である」ということの意味は「イエス以外は主、神ではない」ということである。具体的にはローマ皇帝はこの世の権力者ではあるが、神ではないということを意味し、「復活した」という信仰は、「イエスの十字架の死が終わりではなく始まりであり、今のわれわれに生きて働き、われわれの救いの根拠である」ということである。そしてそれは「讃美」であり「感謝」であった。
キリスト教の最初の教会会議(使徒言行録15章)でなされた決断は、キリスト教は「割礼」を救いの条件にしないということであった。このことによってキリスト教は民族、男女、年齢、ローマ市民、奴隷などの差異を超えて、すべての人に対して開かれた教えとなり「聖なる公同の教会」を形成していった。信仰のリアリティはこうして繰り返し「再読」されて今日に至る。その「再読」は、なにもない平穏無事な日常のなかで「再読」されたのではなく、実に厳しい試練、戦い、そして迫害のなかで問われ、鍛えられて、「福音とは」「信仰とは」と問われ続け、「再読」されてきた。わたしたちはその証人だ。
今日の聖書の箇所で「いろんな試練に出会う」と書かれ、このとき「喜びと思いなさい」と語られ「信仰が試される」とある。現実は厳しい極限状況が今後もしばらくは続く。コロナウィルスの影響は、政治、経済、社会、一人一人の暮らしに直接関わっている。困難な状況があればあるだけさまざまな局面が生まれる。自警警察が生まれたことなど、わたしたちはどう考えたらよいのか。「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く」という現実がある。おそらくは恐怖にかられて、社会(地域)を守るためによいことをしている、ということなのではないだろうか。
このとき、わたしたちはみ言葉から実に多くの示唆が与えられ、そして慰めと希望、癒しがここにあることを「再読」していく。