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「クリスマスの本当の意味」

創世記28章15節
マタイによる福音書1章23節

説教 北 博 兄

 厳密に言えば12月25日は、イエス・キリストの誕生日ではない。正しくは、イエス・キリストのご降誕を祝う日、ということになる。しかも、それが12月25日に祝われるようになったのは、やっと4世紀になってからである。そもそも初期のキリスト教の主な関心は誕生ではなく、圧倒的にイエス・キリストの十字架の死と復活だった。  
 クリスマスが当初から異教的で世俗的な性格を持っていたことは事実である。しかしそのことが、逆にすべての人の救い主としてのイエス・キリストを非常に分かり易い形で際立たせ、教会と世との懸け橋としての役割を果たしてきたこともまた確かなのではないだろうか。今後クリスマスは、この観点からその重要性が改めて見直されてもいいのではないか。
 クリスマスとは何か。それは、救い主が私達のこの世界にお出でになったことを祝う、喜びの時である。それはインマヌエル、神は我々と共におられるという約束の証として実現した。救い主は、この苦しみに満ちた世俗世界の真っただ中に産み落とされ、汚い馬小屋の飼い葉桶の中に置かれた。
 救い主は、矛盾に満ちた世俗世界の真っ只中へ、特に社会の中で差別され疎んじられている異邦人や異教徒、それに社会の底辺で苦しんでいるすべての人々の許へと遣わされた。インマヌエルなる救い主の誕生は、すべての隔ての垣根を打ち壊し、すべての人を救おうとする、全人類に対する神のご計画の現われである。そのことに感謝し、このご計画の一端に与れるよう願いつつ、この時を過ごしたい。

2020年12月27日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

クリスマス礼拝「泊まる場所がなかった」

ルカによる福音書 2章 6~7節

説教 原 誠 牧師

 今年のクリスマスはコロナ禍の只中、今までのクリスマスとは全く趣がちがう。しかし2000年の歴史のなかで、いつも心温まるクリスマスばかりではなかった。
 およそ2000年前、パレスチナの片隅のベツレヘムという小さな村で生まれた一人の赤ん坊、そして聖書が伝えるのは生まれるために「場所がなかった」ということだ。
このクリスマスに関する聖書の箇所は、ほんの少しで、そこから知ることができるのは、当時のユダヤは小さな国で、独立国ではなくローマ帝国の属国であった時代にヨセフとマリヤという夫婦がローマ帝国の人頭税の調査のために自分たちの出身地であるベツレヘムに向かって旅をさせられていたその最中に、初めての子どもを生んだが「場所がなかった」と記されたようなできごとであった。
 洋の東西を問わず、人びとはできるかぎりの最善を尽くして出産に備える。そこには「未来のための生命の誕生」があるのだから。しかし庶民である人々は大きな政治的な社会の枠組みから自由ではありえなかった。大きな権力によって「旅」を強いられ、その最中に宿に到着しても泊まる部屋もなく出産し、その赤子は家畜と同じように「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」なければならなかった。
 この出来事は、ほとんど喜びや希望、未来ということについて思いを馳せるようなことではなく、全く絶望的な出来事であったと言わねばならない。生まれてくるのに「場所がない」のだから。生まれて来ない方が良かった、生まれても意味がない、この世には希望もない、光もない。
 今日、コロナの猛威によって、健康がむしばまれ、生命を失い、仕事を失い、家庭が崩壊し、感染するのではないか、感染させるのではないかという恐怖、そして現実として医療従事者への極端な労働の加重が起こり、医療崩壊が現実のものとなり、人びととの間に分断が起こる。平等、公正、正義、平安という言葉の意味と、その実現が、本当に求められている。どこに正義が、平和が、希望が、感謝が、喜びがあるか。「場所はあるのか。」
 マタイによる福音書のイエスの誕生を記した箇所では、この一人の赤ん坊の誕生を巡り、ヘロデは自分の政治的地位を危うくする存在の誕生を危険と見て2才以下の男の子を皆殺しにし、そしてヨセフとマリヤ、イエスはエジプトに逃れた、つまり難民になった。この世の権力者は、場所だけではなく生命をも奪う。
 「泊まる場所がなかった」にもかかわらず新しい生命が生まれた。否、神はそのような現実のなかに「介入した」。これがクリスマスのメッセージだ。この「介入」は、神の愛であるか、神の涙とともに怒りの「介入」であるか。あるいは神が我々の人間の世界と和解のために「介入」した神の業であるか。
 クリスマスとは、このようなそれぞれの現実の中に、神が一方的に「居場所がない」場所にイエスを誕生させたという出来事である。それはこの出来事がこの世に喜ばれようが、喜ばれまいが、われわれが歓迎しようがしまいが、神の意志によって神の計画によって、我々の歴史に「イエス・キリスト」を生まれさせ、そしてこの世を救う、という事業を開始した、ということであった。ここに希望がある。

2020年12月20日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

「信仰におけるつまずき」

ローマの信徒への手紙16章25~27節
マタイによる福音書13章53~58節

説教 原 誠 牧師

 イエスの宣教活動は、当時の人びとのなかに広く知れ渡るものであった。そして大勢の群衆が来てイエスに従う状況であった。イエスの説教の特徴は、たとえを用いるところにあった。その意味は、今日の言葉で言えば天の国、すなわち真理について学ぶということは、神の言葉を伝統や権威のなかに塗り込めてお題目のように硬直化して繰り返していくのではなく、新しい状況のなかで柔軟にその本質をつかみ取り読み直していくこと、再解釈をしていくことが大切だということであった。
 そしてイエスは故郷に帰った。しかしイエスはナザレでは受け入れられなかったと記している。イエスはナザレで育ち、仕事をした。大工であったイエスの仕事は、おそらく近隣の町や村に出かける出張の仕事であっただろう。そしてイエスはおよそ30歳のころナザレから出て、新しい宣教の活動を始めた。そして評判になったにもかかわらず、ナザレの村人は受け入れない。イエスの生育過程を熟知しているから、評判になったとはいえ額面通り以上には受け入れることができないという心理的ブレーキ、抵抗、制約があったであろう容易に想像できる。
 そのナザレの村人たちもまた、一般的には平均的なユダヤ人として「メシア」を待ち望んでいただろう。その「メシア」のイメージは、ユダヤ民族の独立、神の支配の完成であり、当然、異民族であるローマの支配からの解放、そして政治的メシア、すなわち軍事的、政治的な、ユダヤ民族主義に基づくメシアのイメージであっただろう。そこには目の前にいる、子ども時代から熟知しているイエスとは「メシア」のイメージとのギャップがあった。今日の聖書の箇所のルカによる福音書の並行記事4章21節では「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とある。イエスのこの決定的な宣言を、しかし人びとは受け入れられなかった。
 人びとは、そしてわたしたちは、自分の理想をメシア像に投影する。今日的なイメージではアイドルを作りあげる。そのイメージからはずれると、人びとはそれを認めず拒絶する。ナザレの人びとはイエスにつまずいた。聖書はそれを「不信仰」だと記す。
 事柄を事柄として、語られたことを語られたこととして、現実に目の前で起こっている事に起こっている事実を知っても、これを受け入れず、正面から向き合うことができない、受け入れることができない村人がいた。「人びとはイエスにつまずいた」とある。「メシア」を待ち望むその心がいかに信仰深くあろうとも、自分が作ったイメージを絶対として、これによって判断することになれば、実は、信仰深く自分が神となっていく、ということになる。ローマの信徒への手紙のなかで16章26節「その計画は今や現され」たとある。
 自分で作り上げた偶像のような、しかも信仰深くかたくなな固定的なものが、決定的にそして徹底的に打ち壊され、わたしたちはイエスの到来を待ち望む心、その空間、その場所を開けておきたい。わたしたちのどこに神の支配、福音の出来事を迎えることができるのか。アドベントの時を、今、歩んでいる。

2020年12月6日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者

アドベント第1主日「耐え忍ぶ者は救われる」

マタイによる福音書24章3~14節

説教 原 誠 牧師

 今年のアドベントとクリスマスは、1年前には考えられもしない状況のなかで迎える。
日本社会のみならず全世界がコロナの影響によって深刻な状況に遭遇して以来、わたしは密かに恐れていたことがある。それはコロナの蔓延を神の裁きとして受け止める解釈が起こるのではないかということだった。旧約聖書の出エジプト記に記される疫病、災難は、神を信じないファラオに対して下された裁きとして記される。このような理解はキリスト教のなかにもある。しかし幸いなことに、今日、このような考え方や受け止め方は寡聞にして聞かない。
 東京の富坂キリスト教センターで始められたプロジェクトでは、100年前のスペイン風邪(1918~20、大正7~9年)が大流行したとき、日本の教会はどうであったのか、それらを資料に基づいて検討しようとするものだ。しかしこれに関する資料は極めて少ない。そのなかで興味を引くのは内村鑑三が、戦争(第一次世界大戦)、飢饉(米騒動)、疫病(スペイン風邪)、地震(やがて来る関東大震災)を、神の審判(再臨)の予兆としてあげていることだ。またホーリネス教会では不信仰の罪が今、裁かれているという見解がみられる。今、そのような見方でコロナを受け止めることがないということは幸いだ。
とはいえ今日、わたしたちは厳しい状況のなかで、アドベントの礼拝のなかで聖書の言葉に耳を傾け、現実の社会の有り様に深く目を配る。そしていつの時代も弱い立場の者に対して、問題はより重層化して凝縮していくことに変わりはないように見える。コロナによってわたしたちの社会の営みの根本が赤裸々に明らかになってきていると言える。
今日、読んだマタイによる福音書では、この24章、25章から終末に関する言葉がまとめられて記され、今日の箇所はその最初の記述である。
 弟子たちが「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と問う。弟子たちも、わたしたちも、この世の終わり、終末に深い強い関心をもつ。その答えは「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい」と。今、そのような混乱、見通せない将来のなかで、わたしたちは疑心暗鬼になる。しかし聖書は告げる。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。そして、さらにわたしたちクリスチャンにとって最も大切なことは、終末、この世の終わり、ということは、恐るべきこと、避けたいことでは決してない、ということだ。
 「それから終わりが来る」ということに対して、わたしたちにとっては真に待ち望むことだからだ。わたしたちは終末を待ち望む群れだ。終末とは、神の支配の完成、成就ということなのだから。わたしたちは「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」という信仰を「告白」する。わたしたちは終末を待ち望む群れである。

2020年11月29日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者