「まことの礼拝とは?」

創世記22章1~14節
ローマの信徒への手紙12章1~2節

説教 北 博 兄

 ローマ12:1でパウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と勧めているのは、自分の一切を神に明け渡し、全生涯をかけて神に仕えなさい、という意味である。そしてこれこそが、まことの霊的な礼拝である。

 まことの礼拝とは生活全体において神に仕えることである。そして教会とは、そのような意味で神に仕える者達の群れである。私達は通常日曜日ごとに会堂に集い、共同の礼拝を行い、お互いを励まし合い、それぞれの生活の場へと散らされる。そしてそれぞれの生活の場で人に仕え、それを通じて神に仕える。このすべてが礼拝なのであって、会堂で行なわれる共同の礼拝だけが特別の聖なる空間なのではない。従って、何かの事情で会堂における共同の礼拝に集えなくとも、それぞれの場で神に仕える者達の心がつながっているならば、礼拝共同体としての教会は存在する。最も重要なのは、生活全体を礼拝とし、聖なる時間、聖なる空間とすることである。生活全体を礼拝とするというのは、日々の生活において人と神に仕え、それによって自分の人生そのものを神に献げることである。私達は弱い存在であるが、日々の生活の中で常に神との出会いを求め、神によって力と希望を与えられ、日々新たにされて神に仕えていきたいものである。

2020年9月27日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者