ローマの信徒への手紙 5章12~21節
説教 伊藤 香美子 姉
キリスト教の罪とは、神様の御心(律法)に反する悪い行動と言葉と思いの全てです。私は宮城学院中学校に入学し、初めてキリスト教と出会って、罪について学んだ時、私は何と罪深い人間かを自覚させられました。そして、ただ悪い行動や言葉だけでなく、心の中の悪い思い(人を憎んだり、軽蔑したり、ねたんだり等々、言動化しなければ人には分からないもの)も罪であるなら、私のような罪人は救われないと思い込み、絶望し、長い間悩み、苦しみました。
そして迎えた高3の受難節に、キリストの受難はまさにこの私の罪のためであったとの思いが強く迫って来て、私は迷うことなくそれまでの罪を悔い改め、イースター礼拝で洗礼を受けました。そして神様に罪を赦された恵みを心から感謝しました。
大学では宗教学を専攻しましたが、その頃はまた新たな罪意識に悩んでいました。ところが、大学院に進学して仙台を離れ、京都で下宿生活をしていた時、素晴らしい出会いが与えられました。数年先輩のカトリック信徒の女性が、私の悩みを丁寧に聞いてくれて、彼女は「あなたのその罪を赦すために、イエス様は十字架で苦しまれたのでしょ」と優しく悟らせるように語りかけてくれました。私はそれはよく理解しているつもりでしたが、その時初めて「キリストの受難」を普遍妥当的な客観的真理(人類の罪の赦し)というよりも、私にとっての主体的真理として、即ち、この私の罪を赦し、私を真に私らしく生かしてくださる神さまの大きな恵みとして受けとめることができ、感謝で涙が溢れました。
私たちは日々罪を重ねています。だからこそ使徒パウロの「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」の御言葉は真実です。自分の罪に絶望することなく、神様の大きな恵みに感謝して生きていきましょう。絶望は罪です。