「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」

ローマの信徒への手紙 12章9~15節

説教 原 誠 牧師

 今日の説教では沖縄の教会の歴史的な事柄を知ることを通して、教会とは何かということについて思いを深めたい。
 独立国であった琉球は日本に編入されたあとのキリスト教の伝道は、1880年代に本土で教派の教会が成立した後に始められた。そのときは通訳が必要であった。時代が下って1941年に宗教団体法によって日本基督教団が成立した時、沖縄の教会は九州教区の沖縄支教区となった。当時の沖縄には5教派、16教会(日本基督教会、日本メソヂスト教会、日本パブテスト教会、きよめ教会、そして救世軍)があり、クリスチャンは約2000名であった。
 沖縄戦が始まる前に集団疎開が始まり、本土出身、沖縄出身のほとんどの牧師が沖縄を離れた。この出来事はのちに羊飼いが羊を見捨てて逃げ去ったと言われた。沖縄に残ったのは首里教会の佐久原好伝牧師のみで、彼は教会を守って最終的に戦死した。沖縄戦後、住民は収容所で生活を始め、生き残ったキリスト者は共に讃美歌を歌うことから戦後のキリスト教の活動は再開された。それは九州教区沖縄支教区が消滅したということであった。収容所では牧師が決定的に足りなかった。特徴的なことは神学教育を受けなかった信徒が米軍のチャプレンから按手礼を受けて牧師となって教会の再建にあたったことである。戦後の沖縄の教会は「信徒の教会」だった。
 イエス・キリストが支配する教会が国家、政治、軍事によって分断されたことを、信仰の共同体であるわたしたちはどう捉えたらよいのか。もちろん本土でも教会もまた罹災し、飢え、自分の教会の再建で大変だったが、わたしたちが口にする「隣人」、否「主にある同胞」を意識の中から欠落させてしまった歴史を深く知る必要がある。
 そしてアメリカの教会の援助を受けて沖縄の教会から有望な青年が本土やアメリカに留学し、卒業後に沖縄の教会にもどってきた。ここでは米軍によって按手礼を受けた牧師と神学を学んできた青年牧師との間のキリスト教理解や米軍認識などで大きな溝となった。
 1966年の夏に行われた教団の夏期教師研修会では教団の戦争責任が議論され始めた。その発端はその前年に当時の大村勇日本基督教団議長が韓国基督教長老会の総会で謝罪したことに端を発したものであった。このときこの講習会に出席していた沖縄出身でルーテル神学大学に留学した山里勝一牧師が、韓国への謝罪が問題となっているが沖縄の歴史、教会のことを忘れているのではないか、という指摘がなされた。これは参加者に衝撃を与えた。その後、急速度で日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同辺の準備が進められ69年2月、二つの教会は合同議定書を交わして、今度は教団沖縄教区となった。当時の日本基督教団は20万の信徒、15教区、1700の教会。沖縄キリスト教団は2000人の信徒、24の教会であった。両教会のサイズは全く違うが、しかしここでは「合同」とされた。その意味はそれぞれの独自の異なった歴史的背景をもった独立した教会、教団同士が合同してひとつの教会になるということだ。喜びと涙を分かち合うことがなければ、教会はこの世の企業と同じような論理で生きていることになる。わたしたちの教会は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができるか、それを求めていきたい。

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