マルコによる福音書2章23-28節
説教 新免 貢 教師
本日の聖書箇所は、イエスの弟子たちが空腹になって、麦の穂を摘んで食べ始めたという話です。貧しい農村社会におけるのどかな風景を想像させてくれこの話には、当時の宗教上のおきてが関係しています。弟子たちが麦の穂を摘んだのが、労働をしてはいけないと定められた安息日でした。麦の穂を摘むということは労働と見なされていました。弟子たちは、安息日にしてはならないことをやったことになり、それが宗教上の重要なおきてを破ったと当時の陰湿な宗教指導者たちから批判されました。それに対して、イエスが、「安息日という制度は人間のためにできたのであり、人間が安息日という制度のためにできたのではない」と言い放ちました。これは、「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」と言い換えることができます。スカッとするような人間解放宣言です。
しかし、この発言は、社会の規範や宗教上のおきてを守ることを重視している者たちには、自分たちの存在証明である規則や規範や法律を正面から否定された気になります。こういうことを言い放つと、命も狙われかねません。安息日のおきてを破った場合、死に定められるという掟があったからです。同じ立派な見識ある発言も、命の危険をかけてまで言うのと、命の危険など意識する必要もないところで語るのとでは、ずいぶん差があります。自由や平等をよいことであると考えている私たちが「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」と主張しても、命を失う危険はありません。それどころか「いいことを言うね」と褒められるでしょう。しかし、イエスは踏み込んで、「法は人のためにあるのであって、人が法のためにあるのではない」と言い放った時、イエスは命を懸けて言っているのです。これはイエスらしい人間解放宣言です。この宣言により、死んだイエスの存在が今ここによみがえるのです。