ヨブ記6章14~26節
説教 伊藤 香美子 姉
前回(9月13日)の主の日の礼拝で、「絶望は罪です」としめくくりました。今回は、絶望について考えてみたいと思います。
前回でも述べましたが、私は中高大学時代、自分の罪に絶望して長い間悩み苦しみました。その苦しみの中で、大学時代にデンマークのキリスト教思想家キルケゴールと出会いました。彼は幼い頃から父親より厳しいキリスト教教育を受けて育ち、若い頃に絶望して苦しんだことがあることを知り、私は非常に親近感を覚えました。
キルケゴールによれば、罪の自覚はキリスト教信仰の前提であること、また彼は絶望について「神を離れた人生の本質はすべて絶望である」と述べ、絶望が神の前において意識されるとき、「絶望は罪である」と述べています。そして、現代人の精神の病として普遍化している絶望について、彼自身が絶望して苦しみ、それを克服した境地から絶望を見つめ、人間が陥る絶望の諸現象を分析し、絶望を克服する方向を教え示しています。それが信仰です。
私たちは信仰によって絶望を克服し、希望をもって生きることができます。私は若い頃、「自分の罪に絶望する罪」に陥っていたのでした。神様の愛は、どんなに大きな罪も、どんなに沢山の罪も、悔い改めれば赦してくださる無限の愛です。それが信じられず、自分の罪に絶望してしまうのは、まさに罪に他なりません。神様を信じて、すべてを神様にお委ねして生きて行きましょう。