召天者記念礼拝「証人の群れ」

イザヤ書43章10~13節
ヘブライの信徒への手紙12章1~2節

説教 原 誠 牧師

今朝、わたしたちは仙台北教会で信仰生活を送り天に召された信仰の先達たちを憶えて礼拝を守っています。多くの教会が例えば「100年史」を出版しています。そのときに多くは、在任した牧師時代で章立てをすることがあります。この教会の場合でいえば片桐清治、デフォレスト、川端忠治郎、菅隆志各牧師の名前が記されます。しかし、実はより本質的には、その時代にこの教会で信仰生活を送った一人一人の信徒がおり、その信徒の信仰の「鎖」によって教会の歴史は紡がれてきたことを深く憶えたいと思います。そして今もその「鎖」のなかにわたしたちもいるのです。

わたしは主に日本のキリスト教の歴史、またアジアのキリスト教の歴史を学んできましたが、その際の重要な視点、そして方法として「民衆史」ということを念頭に置いてきました。通常、日本のキリスト教を学ぼうとするときには、例えば新島襄や内村鑑三、あるいはデフォレスト、シュネーダーなど著名な牧師、指導者について学びます。しかし教会は、そこに集められた信徒によって形成されるのです。

わたしは今までいくつかの無牧の教会を応援してきましたが、その際、わたしは牧師がいなくても、そこに信徒が集まっていれば、そこは神の支配する共同体、神を中心にした教会があるのだということを強調してきました。少し目を広げてみると、単純なことだが日本の教会は日本社会全体のなかでは圧倒的に少数派です。日本の場合は、キリスト教は150年の歴史を過ごしてきましたが、今もなお家族全員がクリスチャンという場合はあるものの、その家庭のなかでクリスチャンは一人だけ、というケースは多いのです。その場合、現在は以前ほどではないかもしれないが、場合によればある種の緊張関係を持つことがあります。キリスト教は一人一人の信仰告白によって成立しますが、日本の場合、信仰告白なしに家の宗教、あるいは民族の宗教があるからです。近年、日本の宗教事情は少しずつ変化してきているかもしれませんが、このようななかでクリスチャンになるということは日本では自明のことではなく、本当に一人一人のケースが、ストーリーがあります。そのようなストーリーをもつわたしたちが、信仰の先達たちと同じく、この教会の「鎖」に連なっています。

そこでは型にはまって、硬直化した信仰ではなく一人一人の信仰の多様性があることを徹底的に重んじ、尊重していくのです。

  イザヤは「わたしの証人はあなたたち」であると述べます。またヘブル書では「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と述べています。すでに召された信仰の先達を憶えつつ、わたしたちもその「鎖」のなかにあることを憶えて「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」歩みを続けていきましょう。

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