マタイによる福音書 11章25〜30節
説教 近藤誠牧師
マタイによる福音書 11章25〜30節
説教 近藤誠牧師
使徒言行録 2章1〜11節
説教 近藤誠牧師
エフェソの信徒への手紙 4章1〜16節
説教 近藤誠牧師
マタイによる福音書 6章1〜15節
説教 近藤誠牧師
ヨハネの手紙一 2章1〜11節
説教 近藤誠牧師
ヨハネによる福音書 11章17〜27節
説教 近藤誠牧師
コロサイの信徒への手紙 3章1〜11節
説教 近藤誠牧師
使徒言行録 13章26〜31節
説教 近藤誠牧師
マタイによる福音書28章1~10節
説教 近藤誠牧師
仙台北教会の皆さん、イースターおめでとうございます。今なお、コロナ禍や余震など、多くの不安が付き纏っておりますけれども、どのような時にも主は共におられるということを改めて深く覚えさせられた一年を過ごして参りました。特に、遠方より代務者としてお越しくださった原誠先生、また説教奉仕をしてくださったそれぞれの先生方に感謝を申し上げます。また、祈りと力を合わせて教会を支えてくださったお一人お一人を、主が労ってくださり、豊かに顧みてくださいますように心からお祈りいたします。
私たちは2月17日の灰の水曜日から受難節、棕櫚の主日から受難週、一昨日には受難日を覚えて過ごして参りました。果たして、主イエスを愛すると誓ったはずの弟子ペトロが「そんな人は知らない」と裏切った後に激しく涙したことを、私たちはどれほど己のこととして悔い改めることができたでしょうか。むしろ私たちを悩ませる様々な苦難に対し、主に全てを明け渡して委ねるよりも前に、不平不満をつぶやいてしまうことが少なくなかったのです。
このような私たちの罪を贖う犠牲として、主イエスは十字架にかけられました。そのことをまだ理解しない弟子たちは、絶望の極みにあったはずです。主に従うという彼らにとっての栄光の道は閉ざされ、それぞれの生活の現場に虚しく戻る他なかったのです。しかし神の御心は、主の死に終わることはありませんでした。二人の婦人が墓を見にいくと、そこに主の天使が現れ、墓が空であることを告げられます。主は復活されたのです。
婦人たちは恐れながらも大いに喜び、弟子たちに知らせるために走り出しました。私たちは今朝、こうして主の復活を祝うイースターの喜びにあずかりました。この喜びを携えて出発しましょう。その行く手にもはや絶望はなく、主イエス・キリストという希望があることを確信し、これから始まる2021年度を共に歩み出したいと思います。
マタイによる福音書20章25~28節
説教 原 誠 牧師
今朝は棕櫚の主日、来週は復活日で、われわれキリスト者にとって最も大切な日です。イエスの十字架の死と復活を念頭に置きながら、わたしたちの仙台北教会が大切なことと信じてきた会衆派の教会、信仰を改めて学びたいと思います。
わたしたちはプロテスタントです。その意味は「抗議するもの」ですが、誰に対して、何に対して「抗議」したのでしょうか。それはカトリック教会でした。カトリックという意味は「唯一、普遍、公同」です。それはひとつの教皇のもとにたった一つの教会ということで、そこには信じる自由、信じない自由はありませんでした。このカトリックに対して宗教改革が始められましたが、結論的に言えばルターによる「ルター派」の教会も、スイスのチューリヒでツイングリによって形成された「改革派教会」も、カルヴァンによって設立された「長老派」の教会も、当初は「領邦教会」「国家教会」となりました。宗教改革とは言うもののカトリックと同じく信じる自由、信じない自由はなかったのです。このヨーロッパの動きはイギリスの宗教改革に影響を与えました。イギリスの宗教改革は、信仰の内容はプロテスタント、教会の制度はカトリック、すなわち「英国国教会」となりました。そこでも「信教の自由」はなかったのです。そのようななかで「国教」というものが宗教の腐敗堕落だと考える純粋なキリスト者たち(ピューリタン)が生まれました。彼らは英国国教会の圧政下で特に苦しみ、多くが犠牲となりました。そのピューリタンたちの一派に独立派(Independents)または会衆派(Congregationalists)を唱える人たちがいました。彼らこそが会衆派教会の原点です。彼らは厳しい弾圧を受け一部はオランダに亡命し、その後、自由を求めてメイフラワー号でアメリカ大陸に渡ったのです。
アメリカは新しい移民の社会でした。そこで生まれた教会は自己中心的な自分たちだけの教会を形成しようとしたのではなく、世俗社会の権力や干渉は拒んでも社会への奉仕は忘れませんでした。会衆派教会は教会の組織を維持するために教規や教憲を振りかざして各個教会を裁くなどという行為を言語道断と考えます。それは国家のやることで教会が国家のように振る舞うことをあるまじき振る舞いであると考えました。そこには本質的な謙虚さがあります。教会は人々の救いのために「仕える」のです。
出エジプト記で「わたしは必ずあなたと共にいる」と宣言し、またマタイによる福音書のなかで「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と記されています。
イエスの生き方と生涯、そして十字架の死と復活の出来事のなかで、罪人の足を洗ったイエスのことを思い出します。会衆派の教会はイエスの福音宣教が愛と自己犠牲であったことを覚え、社会的責任を最も強く重んずるキリスト教として活躍し続けました。この信仰的伝統を確かに引き継いだ新島襄が、京都に同志社を設立し、この伝統が東北の仙台に根付いて今日まで続いてきたのです。今年の3月13日は仙台北教会の134年目の創立記念日でした。わたしたちはこの精神的伝統を正しく継承し、新たに赴任する近藤牧師とともに仕える教会として使命を果たしていく教会であって頂きたい。