マタイによる福音書28章1~10節
説教 近藤誠牧師
仙台北教会の皆さん、イースターおめでとうございます。今なお、コロナ禍や余震など、多くの不安が付き纏っておりますけれども、どのような時にも主は共におられるということを改めて深く覚えさせられた一年を過ごして参りました。特に、遠方より代務者としてお越しくださった原誠先生、また説教奉仕をしてくださったそれぞれの先生方に感謝を申し上げます。また、祈りと力を合わせて教会を支えてくださったお一人お一人を、主が労ってくださり、豊かに顧みてくださいますように心からお祈りいたします。
私たちは2月17日の灰の水曜日から受難節、棕櫚の主日から受難週、一昨日には受難日を覚えて過ごして参りました。果たして、主イエスを愛すると誓ったはずの弟子ペトロが「そんな人は知らない」と裏切った後に激しく涙したことを、私たちはどれほど己のこととして悔い改めることができたでしょうか。むしろ私たちを悩ませる様々な苦難に対し、主に全てを明け渡して委ねるよりも前に、不平不満をつぶやいてしまうことが少なくなかったのです。
このような私たちの罪を贖う犠牲として、主イエスは十字架にかけられました。そのことをまだ理解しない弟子たちは、絶望の極みにあったはずです。主に従うという彼らにとっての栄光の道は閉ざされ、それぞれの生活の現場に虚しく戻る他なかったのです。しかし神の御心は、主の死に終わることはありませんでした。二人の婦人が墓を見にいくと、そこに主の天使が現れ、墓が空であることを告げられます。主は復活されたのです。
婦人たちは恐れながらも大いに喜び、弟子たちに知らせるために走り出しました。私たちは今朝、こうして主の復活を祝うイースターの喜びにあずかりました。この喜びを携えて出発しましょう。その行く手にもはや絶望はなく、主イエス・キリストという希望があることを確信し、これから始まる2021年度を共に歩み出したいと思います。