「心が燃える」

ルカによる福音書24章28~35節

説教 原 誠 牧師

 4月12日のイエスの復活の出来事は、人びとにどのような出来事として起こったのか、福音書はそれぞれに記しています。福音書はそれぞれに墓が空虚であったこと、そして復活のイエスが、どのように人びとにかかわったのかを記しています。今日のテキストは復活後のイエスの「「顕現物語」のひとつです。

 福音書はエルサレムからエマオに向かう2人の弟子たちのことを記しています。今日のテキストの前の24章13節以下にその経緯が記されています。弟子たちはイエスに期待していたのでしたが、その結果は敗北の結末である十字架の死でした。だれかに、なにかを期待し、それが裏切られたのですから。それをエマオへの道すがら語り合います。彼らは一人ではなく二人でした。もし一人だとしたら語り合うことはできません。エルサレムで起こったこと、イエスの十字架の死、その意味について、心のうちを語り合う。どのような思いでイエスのことを聞き、イエスにしたがって歩もうとしたか、自分の村、町から、家族をすててでも、仕事を捨ててでもイエスに期待してついていこうとした。それはこの二人だけではなく、ほかにも大勢いたはずです。理想の実現がここにあると信じて人生をかけてきた。異民族であるローマ帝国の支配、そして形式化し形骸化し人を裁くのみになっていたユダヤの律法、そこには心の内の熱い思い、柔らかさ、もっとも大切なことがイエスにあると信じてきたのです。それがすべて敗北、十字架の死、失敗だったということを「14節、この一切の出来事について話し合っていた」のです。もう一人「目は遮られて」わからなかったものイエスも同行していました。二人の会話はそれまでの出来事の反芻でした。この語り合い更に続き、今日の聖書の個所につながります。

 「目指す村に近づいた」が、イエスは先に行こうとする。二人はイエスと一緒に泊まるろうとして「無理に引き止めて」家に入ります。そしてわたしたちにとっても最も大切な日常のなかでの「食事の席」で、つまり聖なる場所、空間ではない、その状況のなかで、イエスとは誰であったのかが、わかったのでした。そしてその体験は、もう肉体を取ったイエスが必要ではなく「目が開け」たのでした。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と記しています。これが復活の体験でした。復活の出来事は、食卓をともにする、すなわち「聖餐」がありました。主の食卓です。もはや、イエスの姿が見えなくてもよい。イエスの背丈、顔の色、声の高さ、低さ、それら一切は不要であり、わたしの、そしてわたしたちの心のなかで、「燃える」体験でした。

 復活があったかなかったか、そのような超自然的なことを信じることは迷信だ、という理解は当然です。しかし「復活」の体験が、人びとに決定的な「人間革命」を起こしたことは歴史的に事実です。

 イエスの筆頭弟子定ペトロはイエスを裏切り、見捨てて逃げ去り、もっとも愛していたイエスを「知らない」と否定しました。絶望の中に置かれたペトロも使徒言行録に記されるように雄弁な使徒とされました。「人間革命」が起こりました。これは歴史的証言であり歴史的事実です。ペトロの中にイエスが生きて働いている、いた、そのことで復活が明らかです。ここにキリスト教の根本的なメッセージがある。それは「心が燃える」体験、それが「復活」の体験でした。

2020年4月26日 | カテゴリー : 主日礼拝説教 | 投稿者 : サイト管理者