2026年9月6日(日)礼拝のご案内

牧 師  小西 望

時 間  10時30分から11時30分ごろ

交読文  詩編 33編12〜22節

聖 書  申命記 32章3〜11節 (p.332)
     ルカによる福音書 18章18〜23節 (p.144)

讃美歌  197・424

 8・9「嗣業」という言葉は旧約聖書によく出てきますが、広辞苑を開いても載っていません。この節にあるように、主によって分け与えられ受け継ぐべき財産、特に土地を指します。イスラエル人にとっての嗣業の土地は重要なもので、他人が買ったり奪ったりできないものでした(列王記上21章など)。
 加えてここには、民が約束の地を割り当てられたように9「主に割り当てられたのはその民」との印象的な言葉があります。ここには、見出された取るに足りない民を(7:7)主が捨てることなくわがものとされ続けるその愛が指し示されています。
 18「ある議員」が主イエスに訊ねた永遠の命を18「受け継ぐ」には、との語はこの「嗣業」を動詞にしたものです。神の国は、その民に約束され割り当てられた大切な祝福だとの理解がここにあります。このとき主イエスは22「持っている物を…分けてやりなさい」と諭されました。あなたが手にしているものの中には種々の嗣業があるはずだ、それを独り占めしていて神の国の恵みだけを18「受け継ぐ」ことは難しい、と主は言われたのだと思います。
 22「持っている物をすべて売り払」うことが、神の国を受け継ぐための条件なのではありません。主はその嗣業である小さな民に、喜んで神の国をくださると述べられているとおりです(27節、12:32)。でも取りも直さず、嗣業は共々に受け継がれるべきものであり、これを分かち合うときに私たちは神の国の喜びにあずかるのです。
 讃美歌424 “美しい大地は” は、フィリピンの神学者 E.G.マキーゾによって作られました。美しい大地が神の贈り物でありみんなの嗣業であるとの聖書のメッセージから、過去のプランテーションから今日の多国籍企業によるアグリビジネスに至る収奪の実態が見つめられており、フィリピンの青年や農民の間で歌い継がれている讃美歌です。「嗣業」との言葉には、なお今日の世界と人間が耳を傾けるべき使信があることを思います。

2026年8月30日(日)礼拝のご案内

牧 師  小西 望

時 間  10時30分から11時30分ごろ

交読文  詩編 146編1~10節

聖 書  イザヤ書 42章5~9節 (p.1128)
     マルコによる福音書 16章14~18節 (p.98)

讃美歌  479・402

 マルコ16:9~は本来のマルコ福音書には無く、後につけ加えられたものと考えられています。それゆえ、新共同訳でも[ ]に入れて記されています。たしかに、復活の主イエスが弟子たちをおとがめになったとの記述(14節)などには違和感も感じます。

 他方、ここには15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との宣言があります。世界と人間そしてすべての被造物は多くの課題と困難を負っていますが、神の創造の祝福にあってそれらは存在し、その回復のためにこそ主イエスはこの地に十字架の救いを据えられたのでした。

 この宣言と同じ響きをもつメッセージが、ローマ8:18~25にあります。ここの22「被造物がすべて今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」との理解と、15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との指し示しは内容的に響き合っています。15「福音」は全被造物の「うめき」を分かち、これを大いなる希望へと向けるものなのです。

 イザヤ42:5~でも、「天」「地」と生けるものへの祝福、そして「主」に連なる者の使命が語られています。それは生きて働かれる主(9節)に従い、正義と平和の実現のために労することです(7節)。

 17「信じる者」に伴う17「しるし」として挙げられている17「悪霊を追い出し」とは罪の支配からの解放、17「新しい言葉を語る」とは主の言葉に養われ生きること、18「手で蛇をつかみ」とは誘惑に打ち勝つこと(創3:1~)、18「毒を飲んでも…害を受けず」とは世に勝つ主に連なること、18「病人に手を置けば治る」とは愛と癒しに向かうこと、とそれぞれ受けとめることができましょう。

 復活の主イエスは、私たちがたとえば教会といった限られた場所だけでうれしく生きることを望んではおられません。それぞれが遣わされた15「世界」で15「福音」を生き、分かち合うことへと召しておられます。

2026年8月23日(日)礼拝のご案内

日 時  2026年8月23日(日) 10:30〜11:30ごろ

牧 師  小西 望

交読文  詩編 8編1~10節

聖 書  民数記 11章1~6節 (p.230)
     ヨハネによる福音書 6章1~13節 (p.174)

讃美歌  363・467

 キリスト教で古くから用いられてきたシンボルの一つに、魚があります。“イエス・キリスト・神の・子・救い主” を表すギリシャ語の頭文字5つを並べると “イクスース(魚)” となるからで、ローマ帝国下の迫害時代、キリスト者たちは魚の絵を描いて互いの信仰を確かめ合ったと言います。
 魚はイスラエル人にとって、日常の食べ物であり、大切なタンパク源でした。荒野の旅の途中、エジプトでは魚をはじめ色々なものを食べていたのにと民は嘆き声をあげました(4~5節)。ちなみにイスラエルでは、ひらめ・かれいを“モーセの魚”と呼びます。モーセが紅海を分けたとき(出14:21)、一緒に身が分かれてしまったとの伝説があるのだそうです。
 また今日開いた箇所はじめ、人間をとる漁師の召し(マルコ1:17)、釣った魚から銀貨を取り出す話(マタイ17:27)、153匹もの魚がとれて焼いた魚を復活の主イエスが食べられた話(ルカ24:42~、ヨハネ21:5~)など、福音書には魚がよく現れます。焼いた魚の話は、十字架の死を遂げられた主イエスが完全な身体をもって復活されたことを指し示していましょう。思えば主イエスは傷ついた者に触れ、その痛み悲しみに涙し、喜ばしく共に食べることを喜びとされ、ついにはその肉と血によって私たちの贖いを成し遂げられたのでした。
 今日の箇所によると、5つのパンと2匹の魚は少年のお弁当でした(9節)。主イエスはこれを用いて10「五千人」を満たされ、小さな者の働きも大きな喜びへと尊く用いられることを指し示してくださいました。
 主イエスの昇天の後も、弟子たちは魚を見るたびに主イエスの言葉とみ業、そして召しを親しく思い起こしたことでしょう。そしてわたしたちも、日々の生活の中で具体的にみ旨に生きていくべく召されています。

2025年1月19日(日)礼拝のご案内

メッセージ「鷄鳴の前で」

牧師  布田秀治

聖書  ヨハネによる福音書18章15節ー18節、25節ー27節

讃美歌 讃美歌21 313 讃美歌1編 248

コロナ感染予防のために

教会に来る前の検温やマスクの着脱は個人の判断に委ねます。教会では消毒、検温、換気を行います。