2026年10月11日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第21主日

牧 師 小西 望

時 間 10時30分から11時30分ごろ

交読文 詩編 116編1〜19節

聖 書 エレミヤ書 32章6〜15節(p.1238)
    コリントの信徒への手紙二 4章7〜15節(p.329)

讃美歌 403・510

 先々週、私の牧師就任式が行われました。ついては、就任に際しての思いを加えて語らせていただこうと思います。
 B.C.6世紀、新バビロニア帝国の軍隊が都エルサレムを包囲し(2節)南王国ユダが滅亡しようとしているさ中、預言者エレミヤは主の言葉に導かれてエルサレム近郊の町アナトトの土地を買い取りました。私の好きな聖書箇所です。やがて占領されるであろう土地について、エレミヤは細かな正式の手続きを踏んで10「証書」を作成したのでした。そこにはいったいどのような意味があったでしょうか。
 それは彼が預言した通り、亡国と捕囚を経ていつの日か復興が与えられる時が来るとの主の約束への信頼を表していました(30:3~、15節)。彼がそれを目の当たりにすることはありませんでしたが、「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」(ヘブライ11:13)自らに託された働きに向き合ったのでした。
 牧師とされて37年。現場に出るといろんなことをせねばならず、いろんなことができるようになりました。会計管理と複式簿記、社会保険事務、自動車の売り買いと諸手続き、エアコンの設置、マイクロバスの運転、下水道詰まりの修繕、などなどです。こうしたことはできるようになった一方、ちゃんと礼拝説教ができるようになったのかはよくわかりません。日々関わり為すことの多くは、小さく地味なことです。ですが私たちの前には先人の積み重ねられた働きがあり、継承していってくれる後の世代もいるはずです。もっと言えば、私たちの生は創造に始まり完成に至る主なる神の大いなる歴史の中に位置づけられています。
 7「土の器」とは私たちの存在を指す比喩です。そうした有限で脆い者ながら、6「神の栄光」10「主イエスの命」を戴きとり用いられるとの不思議と幸いが指し示されています。主が完成の約束を果たされることを仰ぎ見つつ、私たちに託された事柄に地道に関わっていければと願うのです。
 13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」とは詩116:10に由来しており、目前の苦境にも私たちは主の慈しみのゆえに希望を仰ぎ得るとの告白・証しの言葉です。十字架の主を仰ぎ連なろうとするとき、11「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」との真実を私たちも信じ、生き、語る者として歩み続けましょう。