2026年10月18日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第22主日

牧 師 小西 望

時 間 10時30分から11時30分ごろ

交読文 詩編 19編1~15節

聖 書 イザヤ書 61章1~4節(p.1162)
    ヨハネによる福音書 8章31~38節(p.182)

讃美歌 227・346

2026年10月11日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第21主日

牧 師 小西 望

時 間 10時30分から11時30分ごろ

交読文 詩編 116編1〜19節

聖 書 エレミヤ書 32章6〜15節(p.1238)
    コリントの信徒への手紙二 4章7〜15節(p.329)

讃美歌 403・510

 先々週、私の牧師就任式が行われました。ついては、就任に際しての思いを加えて語らせていただこうと思います。
 B.C.6世紀、新バビロニア帝国の軍隊が都エルサレムを包囲し(2節)南王国ユダが滅亡しようとしているさ中、預言者エレミヤは主の言葉に導かれてエルサレム近郊の町アナトトの土地を買い取りました。私の好きな聖書箇所です。やがて占領されるであろう土地について、エレミヤは細かな正式の手続きを踏んで10「証書」を作成したのでした。そこにはいったいどのような意味があったでしょうか。
 それは彼が預言した通り、亡国と捕囚を経ていつの日か復興が与えられる時が来るとの主の約束への信頼を表していました(30:3~、15節)。彼がそれを目の当たりにすることはありませんでしたが、「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」(ヘブライ11:13)自らに託された働きに向き合ったのでした。
 牧師とされて37年。現場に出るといろんなことをせねばならず、いろんなことができるようになりました。会計管理と複式簿記、社会保険事務、自動車の売り買いと諸手続き、エアコンの設置、マイクロバスの運転、下水道詰まりの修繕、などなどです。こうしたことはできるようになった一方、ちゃんと礼拝説教ができるようになったのかはよくわかりません。日々関わり為すことの多くは、小さく地味なことです。ですが私たちの前には先人の積み重ねられた働きがあり、継承していってくれる後の世代もいるはずです。もっと言えば、私たちの生は創造に始まり完成に至る主なる神の大いなる歴史の中に位置づけられています。
 7「土の器」とは私たちの存在を指す比喩です。そうした有限で脆い者ながら、6「神の栄光」10「主イエスの命」を戴きとり用いられるとの不思議と幸いが指し示されています。主が完成の約束を果たされることを仰ぎ見つつ、私たちに託された事柄に地道に関わっていければと願うのです。
 13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」とは詩116:10に由来しており、目前の苦境にも私たちは主の慈しみのゆえに希望を仰ぎ得るとの告白・証しの言葉です。十字架の主を仰ぎ連なろうとするとき、11「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」との真実を私たちも信じ、生き、語る者として歩み続けましょう。

2026年10月4日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第20主日

牧 師 小西 望

時 間 10時30分から11時30分ごろ

交読文 詩編 17編1〜15節

聖 書 イザヤ書 43章1〜7節(p.1130)
    ヨハネによる福音書 21章15〜23節(p.211)

讃美歌 463・448

 ヨハネ福音書の謎の一つは、主イエスの受難物語から現れる20「イエスの愛しておられた弟子」(13:23、19:26、20:2、21:7)とは誰なのかという点です。伝統的には使徒ヨハネであるとされますが、他の人物だとする説もあります。
 彼が登場する5回の内、4回はペトロと一緒です。かつて三度主を否んだペトロは(13:38、18:15~)、ここで主から三度15・16・17「わたしを愛しているか」15・16・17「わたしの羊を飼いなさい」と赦しと召しを受け、決意を新たにしたのです。その思いを込め19「わたしに従いなさい」との言葉に文字通り従って行こうとしたペトロは、同様に従ってきた彼に気づいて21「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と訊ねたのでした。
 彼らがその後どうなったのかは興味深いところですし、自らと他者を引き較べるのは私たち自身よくすることでもあります。実際、今日の箇所に暗示されているように、ペトロは殉教の死を遂げたのに対し(19節)20「愛しておられた弟子」はかなり長生きしたようです(23節)。でもこの時の主イエスの答は22「…あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と、ある意味厳しいものでした。
 川端純四郎さん(もと東北学院大学教員、仙台北教会員)は召天半年前に執筆された『3・11後を生きるキリスト教』(新教出版社)の終章で、人間は死という定めを謙虚に受け入れるほかないことを論じつつ、一方で受け入れてはならない死と毅然と戦わねばならないことを指摘されています。すなわち戦争や人災や社会的不公正で、人間は死んではならないのです。小著ですが、大切な多くの示唆と宿題が託された本です。
 一人一人が辿る生はそれぞれ異なりますが、私たちはそれぞれの生をしっかり生き抜くべく召されています。ペトロは殉教で閉じられる生をもって主を証しし、20「愛しておられた弟子」は高齢まで働いて証ししました。そして、それらの生は共に祝されていたのです。
 イザヤ43章で、主は1「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と告げておられます。私たち一人一人は唯一無二のものとして覚えられ、その生はそれぞれ違いを湛えつつ尊く祝されているのだとの宣言です。

2026年9月27日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第19主日

メッセージ 小浜 耕治さん(いずみ愛泉教会教会員)

時 間 10時30分から11時30分ごろ

聖 書 創世記 3章8〜24節

讃美歌 讃美歌21 532 やすかれ、わがこころよ
    これもさんびか 0509 主につくられたわたし

2026年9月20日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第18主日

牧 師 小西 望

時 間 10時30分から11時30分ごろ

交読文 詩編 68編25〜36節

聖 書 詩編 122編1〜9節(p.969)
    コリントの信徒への手紙二 5章16〜21節(p.331)

讃美歌 162・542

 日本基督教団(UCCJ)と台湾基督長老教会(PCT)は1963年に宣教協約を結び、1985年にこれを改定、“一人の主に仕え、主にある喜びと苦しみを共にする”(改定宣教協約第1条)ことを求めてきました。東日本大震災に際しては台湾から268名ものボランティアを送るなど多大の支援をくださり、そうしたことがきっかけとなり東北教区と台湾基督長老教会嘉義中会は2018年宣教協約を締結、少しずつ交流を深めつつあります。
 2019年6月には、台湾基督長老教会の青年修養会に福島県会津から8名の高校生が参加しました。最終日、派遣礼拝でなされた“愛餐”では、ぶどう酒とパンに代えてお茶とバナナが分かち合われたのだそうです。これらは台湾の重要な産物ながら、ヨーロッパ各国が台湾支配を目論み日本が植民地支配した時代に栽培が進められた歴史の痛みのしるしでもあります。一方日本も戦争で原爆被爆という大きな痛みを負った、互いの痛みを振り返り分かち合おう、そして十字架を引き受けられた主イエスがこれらの痛みを共にしてくださっていることを味わおう、と司式者は語られたとのことでした。大きな感銘を受けたと、引率された牧師が報告してくださいました。
 今日の個所で伝道者パウロは、キリストの十字架とは19「世」が神との18「和解」を与えられた出来事であったと広い視点でその意義を語ります。そしてその20「和解」の大いなる恵みに与る者はその業に連帯し(15・17節)、それぞれの場において18「和解のために奉仕する任務」に向かうのだと呼びかけています。
 詩122編はエルサレム巡礼に寄せて、孤立・分断に平和がもたらされる喜びを素朴に歌っています。一緒に行こうと呼びかけられたうれしさは、兄弟・友・人々の平和への祈りにつながっていきます。人は共に生きるべく創られた(創2:18)、その原初の喜びへと世界と私たちを呼び返すべくキリストはこの世に降り立たれ、十字架を負われました。その出来事は、今を生きる私たちの歩みにも及ぶものであることを味わいたく思います。

2026年9月13日(日)礼拝のご案内

聖霊降臨節第17主日/平和を考える礼拝

牧 師  小西 望

時 間  10時30分から11時30分ごろ

交読文  詩編 85編1〜14節

聖 書  ペトロの手紙 一 3章8〜12節 (p.431)

讃美歌  393・562

 少し古い話ですが、2013年韓国・釜山で開かれた世界教会協議会(WCC)第10回大会を前に、10月7日ドイツ・ベルリンから釜山を目指すピース・トレインが出発し、約130人が乗り込みました。列車はモスクワ・イルクーツク・北京・ソウルを経て、28日釜山に到着しました。今日はそのビデオクリップを一緒に見ましょう。世界各国からの参加者が礼拝と交流を重ねつつ、平和への祈りを深くしていった様子がわかります。
 いくつもの国を越えてレールが結ばれていて、列車が走り続けられることにびっくりします。むしろそれを阻んでいるのは、私たち人間の敵意や都合です。今日は国際情勢の悪化により、同じルートを辿ることは困難になっています。またこのときも政府の許可が下りず、ピーストレインが北朝鮮を通ることはかないませんでした。
 ピーストレインが目指した第10回大会のテーマは、“生命の神、わたしたちを正義と平和に導いてください” でした。私たちは正義と平和を目指す列車に乗り組んでいるのだと思い浮かべることもできます。旅は長いかもしれませんが、主イエスのみ業によってレールは目的地までつなげられています。今日開いた聖書は9「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と呼びかけています。そのためには “心を一つに、共感しあい、愛し、他者の痛みを思う一人として歩む”(8節)ことが大切です。ビデオクリップは “旅は続く…” と締めくくられています。世界の多くの人々と共に平和めざす旅を続けていきましょう。

2026年9月6日(日)礼拝のご案内

牧 師  小西 望

時 間  10時30分から11時30分ごろ

交読文  詩編 33編12〜22節

聖 書  申命記 32章3〜11節 (p.332)
     ルカによる福音書 18章18〜23節 (p.144)

讃美歌  197・424

 8・9「嗣業」という言葉は旧約聖書によく出てきますが、広辞苑を開いても載っていません。この節にあるように、主によって分け与えられ受け継ぐべき財産、特に土地を指します。イスラエル人にとっての嗣業の土地は重要なもので、他人が買ったり奪ったりできないものでした(列王記上21章など)。
 加えてここには、民が約束の地を割り当てられたように9「主に割り当てられたのはその民」との印象的な言葉があります。ここには、見出された取るに足りない民を(7:7)主が捨てることなくわがものとされ続けるその愛が指し示されています。
 18「ある議員」が主イエスに訊ねた永遠の命を18「受け継ぐ」には、との語はこの「嗣業」を動詞にしたものです。神の国は、その民に約束され割り当てられた大切な祝福だとの理解がここにあります。このとき主イエスは22「持っている物を…分けてやりなさい」と諭されました。あなたが手にしているものの中には種々の嗣業があるはずだ、それを独り占めしていて神の国の恵みだけを18「受け継ぐ」ことは難しい、と主は言われたのだと思います。
 22「持っている物をすべて売り払」うことが、神の国を受け継ぐための条件なのではありません。主はその嗣業である小さな民に、喜んで神の国をくださると述べられているとおりです(27節、12:32)。でも取りも直さず、嗣業は共々に受け継がれるべきものであり、これを分かち合うときに私たちは神の国の喜びにあずかるのです。
 讃美歌424 “美しい大地は” は、フィリピンの神学者 E.G.マキーゾによって作られました。美しい大地が神の贈り物でありみんなの嗣業であるとの聖書のメッセージから、過去のプランテーションから今日の多国籍企業によるアグリビジネスに至る収奪の実態が見つめられており、フィリピンの青年や農民の間で歌い継がれている讃美歌です。「嗣業」との言葉には、なお今日の世界と人間が耳を傾けるべき使信があることを思います。

2026年8月30日(日)礼拝のご案内

牧 師  小西 望

時 間  10時30分から11時30分ごろ

交読文  詩編 146編1~10節

聖 書  イザヤ書 42章5~9節 (p.1128)
     マルコによる福音書 16章14~18節 (p.98)

讃美歌  479・402

 マルコ16:9~は本来のマルコ福音書には無く、後につけ加えられたものと考えられています。それゆえ、新共同訳でも[ ]に入れて記されています。たしかに、復活の主イエスが弟子たちをおとがめになったとの記述(14節)などには違和感も感じます。

 他方、ここには15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との宣言があります。世界と人間そしてすべての被造物は多くの課題と困難を負っていますが、神の創造の祝福にあってそれらは存在し、その回復のためにこそ主イエスはこの地に十字架の救いを据えられたのでした。

 この宣言と同じ響きをもつメッセージが、ローマ8:18~25にあります。ここの22「被造物がすべて今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」との理解と、15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との指し示しは内容的に響き合っています。15「福音」は全被造物の「うめき」を分かち、これを大いなる希望へと向けるものなのです。

 イザヤ42:5~でも、5「天」5「地」と生けるものへの祝福、そして6「主」に連なる者の使命が語られています。それは生きて働かれる主(9節)に従い、正義と平和の実現のために労することです(7節)。

 17「信じる者」に伴う17「しるし」として挙げられている17「悪霊を追い出し」とは罪の支配からの解放、17「新しい言葉を語る」とは主の言葉に養われ生きること、18「手で蛇をつかみ」とは誘惑に打ち勝つこと(創3:1~)、18「毒を飲んでも…害を受けず」とは世に勝つ主に連なること、18「病人に手を置けば治る」とは愛と癒しに向かうこと、とそれぞれ受けとめることができましょう。

 復活の主イエスは、私たちがたとえば教会といった限られた場所だけでうれしく生きることを望んではおられません。それぞれが遣わされた15「世界」で15「福音」を生き、分かち合うことへと召しておられます。

2026年8月23日(日)礼拝のご案内

日 時  2026年8月23日(日) 10:30〜11:30ごろ

牧 師  小西 望

交読文  詩編 8編1~10節

聖 書  民数記 11章1~6節 (p.230)
     ヨハネによる福音書 6章1~13節 (p.174)

讃美歌  363・467

 キリスト教で古くから用いられてきたシンボルの一つに、魚があります。“イエス・キリスト・神の・子・救い主” を表すギリシャ語の頭文字5つを並べると “イクスース(魚)” となるからで、ローマ帝国下の迫害時代、キリスト者たちは魚の絵を描いて互いの信仰を確かめ合ったと言います。
 魚はイスラエル人にとって、日常の食べ物であり、大切なタンパク源でした。荒野の旅の途中、エジプトでは魚をはじめ色々なものを食べていたのにと民は嘆き声をあげました(4~5節)。ちなみにイスラエルでは、ひらめ・かれいを“モーセの魚”と呼びます。モーセが紅海を分けたとき(出14:21)、一緒に身が分かれてしまったとの伝説があるのだそうです。
 また今日開いた箇所はじめ、人間をとる漁師の召し(マルコ1:17)、釣った魚から銀貨を取り出す話(マタイ17:27)、153匹もの魚がとれて焼いた魚を復活の主イエスが食べられた話(ルカ24:42~、ヨハネ21:5~)など、福音書には魚がよく現れます。焼いた魚の話は、十字架の死を遂げられた主イエスが完全な身体をもって復活されたことを指し示していましょう。思えば主イエスは傷ついた者に触れ、その痛み悲しみに涙し、喜ばしく共に食べることを喜びとされ、ついにはその肉と血によって私たちの贖いを成し遂げられたのでした。
 今日の箇所によると、5つのパンと2匹の魚は少年のお弁当でした(9節)。主イエスはこれを用いて10「五千人」を満たされ、小さな者の働きも大きな喜びへと尊く用いられることを指し示してくださいました。
 主イエスの昇天の後も、弟子たちは魚を見るたびに主イエスの言葉とみ業、そして召しを親しく思い起こしたことでしょう。そしてわたしたちも、日々の生活の中で具体的にみ旨に生きていくべく召されています。

2026年8月16日(日)礼拝のご案内

メッセージ 「子どものように」

日 時  2026年8月16日(日) 10:30〜11:30ごろ

牧 師  小西 望

交読文  詩編 51編1~14節

聖 書  列王記下 5章1~14節 (p.583)
     ローマの信徒への手紙 8章14~17節 (p.284)

讃美歌  509・455

 1「ナアマン」は、イスラエルの仇敵アラムの軍司令官です。家には、かつて戦乱の際捕虜としたイスラエルの2「少女」がいました。1「重い皮膚病」を患っていた彼はこの少女の助言を得て、預言者エリシャによる癒しを求めてイスラエルに赴く決意をします。
 彼は地位もあり、重用されていたのでしょう。アラム王からイスラエル王への親書も得、外交使節のようにやって来たのでした。が、策略が企まれているに違いないと、イスラエル王はこの求めを拒絶してしまいます。
 ナアマンはエリシャの家を直接訪ねました(9節)。が、エリシャは顔を合わせようともせず、10「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」との伝言を与えただけだったのです。怒ったのはナアマンでした。この無礼でいいかげんな対応は何かと憤慨し立ち去ろうとした彼でしたが、家来たちがこれをなだめ思い留まらせました。ナアマンが14「神の人の言葉どおりに」軍服や武器そして心の鎧をも脱ぎ去ってその身を14「ヨルダンに七度浸した」時、体は14「小さい子供の…ように」清くされたのでした。
 このお話では、体面や駆け引きまたプライドに縛られる人のあり様と、2「少女」や14「神の人の言葉どおりに」したナアマンの姿が対比されています。14「小さい子供」のようなあり様が主の前にむしろ尊く、敵味方の壁をも乗り越えさせると告げられています。
 今日の新約聖書に出てくる15「アッバ」とは幼児語、いわば“お父ちゃん”です。主イエスが神をこう呼ばれたように(マルコ14:36)、主イエスの恵みに招かれた者はこう声を合わせ得るのだと告げられています。この手紙は伝道者パウロがまだ会ったことのないローマのキリスト者に宛てたもので、それだけ精緻な論議が綴られています。が、その中心部において、神に招かれ養われている者として小さな子どものように主の名を呼ぶことの大切さが指し示されています。信仰とは難しいことではない、子どものように私を求めなさい、と告げられているかのようです。