大凶作と救援活動
教会のネットワークが動く
仙台と宇都宮の教会が相次いで生まれた時期に起こったのが、涌谷を中心に起こった大凶作でした。この深刻な災害への援助が、米国・東京・宇都宮・仙台・石巻・涌谷・宮城県北・岩手県南とつながる教会ネットワークの中で展開するのです。
涌谷を中心とした宮城県北部は、戊辰戦争(1868~1869年)での敗戦以来、数年に一度繰り返す河川の大氾濫を中心とした災害によって、長く食料生産の不振に苦しんでいました。とりわけ1902年と1905年に相次いで起こった大凶作は、数多くの飢餓を産み出しました。1905年は9月に霜の降りる異常気象となり、1902年の凶作から立ち直る途上に再度襲いかかった災厄は凄惨を極め、国際的にも東日本の窮境が伝えられたそうです。
この1905年の大飢饉の危機の中で、クリスチャン教会のネットワークは力強く機能します。まず、仙台の北野高彌牧師が中心となって「救援基金」が設立されます。この「救援基金」において、石巻のA・M・トゥルー宣教師、そして涌谷の「バイブルウーマン」と呼ばれた浜口レンさんが、現場の担当者として機動的に活動しました。支援活動全体の統括はE・K・マコード宣教師が担当しました。
当時の東北のクリスチャン教会は「6教会・15出張伝道所」体制であり、その本部を仙台に置いていました。被災の中心となった涌谷周辺(現在の涌谷町・大崎市・南郷町・美里町)では「基督教東北凶作救援會」の委託を受けて涌谷組合基督教会の三浦鐵造牧師と教会員が奔走したことが記録されています。これが前述の「救援基金」の「現場」であるようです。
つまり、この時、クリスチャン教会の国際ネットワークと日本組合基督教会の涌谷組合基督教会とが連携して支援活動を展開したということです。
海外からの義援金は、① 米国大統領より1,280円、② 米国民より1,280 円、③ デフォレスト師(日本組合教会宮城教会牧師)より1,100円、④ カトリック教会より980円、と記録されていました。この中の②は、そのほとんどがクリスチャン教会の支援であったと推測されます。明治天皇からの下賜金が1,632円であったとのことでから、その金額の大きさが推測できます。
石巻の大火被災への救援活動で世間に知られるようになったクリスチャン教会は、明治政府の植民地政策の苛政の中で展開しました。重要なことは、どの時も、クリスチャン教会は決して人数的に潤沢な状態ではなかった、ということです。世間の風当たりが厳しいものとなる中で、クリスチャン教会は世間における少数者であり続けたのです。そうであったからこそ逆に、遠隔地とも他教団ともネットワークを繋げ、そのネットワークの力によって地域の困難の現場に奉仕ができたのだと思います。ここには、教会が進むべき道筋がはっきりと示されているように思われます。
