雑記帳
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雑記帳 2025年3月25日(月)休日 朝6時ハン過ぎから、教会のホームペーに説教原稿を載せるために、画像を差し込むのに手間取る。拡張子の”jpeg”を一般的な”jpg”と間違えアタ事に気がつかず、試行錯誤してしまう。 9時頃、洗濯をして、洗濯機を回しながら、朝食を摂り、TVを観ながら、洗濯物を干す. 食べ過ぎてすぐに散歩に出られないため、しばらく休んで、12時過ぎに、カメラを片手に出かける。 今日は、須川と前川の合流する場所と、釣り場所の探索をかねての散歩のため、前川の土手に上り、下に下って歩くことにする。 ![]() 前川に沿う道路で、最初のお出向かいが、電線に止まる。ヒヨドリかな?とシャッター切る。 そして、前川の川岸の道へ降りる階段を下り、川に沿って歩いて行くと JRの鉄橋に下を泡に沿った道が、木道になって、鉄橋をくぐっている。 ![]() 鉄橋の下に、蔵王連峰の雪をかぶった山並みが見えている。 木道の上を歩いて、鉄橋を抜け手しばらく歩いていると、踏切の警報が鳴り始め、山形の方の踏切なので、線路の右側の上りの電車を待っていた。 ![]() しかし後ろから電車の走る音が聞こえ、上山の法へ振り向いて電車を確認詩シャッターを切る 、その電車、木道でくぐり抜けた鉄橋を渡っているところでした。 電車を見送ってしばらく下ったところに、いつもはもっと上流に居る、水鳥の集団が泳いで、わたしの歩みに驚いて飛び立つかもも何羽か居たが、対岸の水鳥は、驚きもせず泳いで居る。 ![]() かもの種類が、何種類か居て、撮影していると、また踏み切りが成っているので、見上げると、山形新幹線が山形へ、こちらへ向かってくるので、カメラを向け摂りましたが、木や草が生い茂っていて、クリアな写真は撮れませんでしたが、一時簡に一本の新幹線なのでラッキーです。 ![]() その後、前川が須川と合流する場所に来ると、河川敷が広がり、前川の右側の須川に合流するため、前川の右側の堤はなくなり、二つの川をまたぐ橋の道路に上がることになり、 その道路を渡り、合流した、須川の左側の堤の上を下っていくことにする。 途中、カワウの集まっている場所があり、カワウは上流に3羽、下流に二羽川面を這うように飛んで行った。 ![]() しばらく行くと、高台に行き当たり、左側に堤を降りれる鉄の階段があり、そこは、上山市の浄水場の敷地であった。そこから川をまたぐ道路に出ると、いつも車で通って居る、川の向こう側にトヨタカローラがあり、こちら側はみゆき病院のある橋二出ました。 そこから、旧羽越会堂の狭いバス通りを下大湯に向かって歩いて、上山教会に戻りました。 途中、道端の南斜面に黄色い水仙が何輪か咲いていました。1時間45分の散策でした。 2025年3月20日(木)東北教区 伝道研修 「塀の中から見る日本の伝道〜教誨師の働きを覚えて〜」 会場:日本キリスト教団 仙台青葉荘教会 教誨師の牧師4名の発題を戴き、午後、発題者を交えた分団での、感想を含めた意見交換が行われ、充実した交わりができると共に、被収容者(受刑者とは言わず)の状況、収容施設での自由を制限された生活状況をうかがい知ることができました。 白井牧師(教誨師)のお話しの中で、刑務所は「自由刑」であり、自由刑とは、罪を犯した人の自由を奪う刑罰出ある事が説明されていました。 ![]() その方にとって、「自由刑」は、家族から見放され、一人りっぽっちにされるという、もっと大きな罰を与えてしまいました。わたしが相談支援専門員になって、相談している中で、彼にとっての家族、特にお姉さんの存在は大きかったように思います。生活福祉課の担当の方も頑張って、戸籍等を頼りに連絡をとってくれましたが、返事をくれた方はお一人で、その方も会うことは拒絶されました。 家族が見放す、「自由刑」は何なのだろうか?私たちの社会性を育ててくれている、家族や社会、とりわけ義務教育の学校で、罪と罰、義務と自由を社会、国語、算数の授業にしっかり取り入れて欲しい、そして、中学では倫理、哲学者、宗教(仏教やキリスト教)。 家庭においては、家のルール、そのルールを守らないと、罰ではなくて、家族のみんなか、誰かが困る事をきちんと教えて欲しい。相手の気持ちが分かる教育は、学校でも同じだと思います。 ![]() その音楽の先生は、一言も叱ることはなく、わたしが壊したのだから、そのテープレコーダーを近くにあった会社に持って行き修理をシテもらってきなさい。その修理代金は学校で払うから修理が終わったら連絡を学校にもらうようにとのことでした。 要するに、わたしの罰則は無く、壊した者を直すための働きと時間でした。音楽の教科の評価のも影響はなく、いつもの5段階の3でした。 音楽の先生としては、次のクラスで使う予定のテープレコーダを壊され、授業に支障を来すわけです。わたしが先生だったら、授業に支障を来して困る事も含めて、腹立たしく、壊した物を叱責するだろうなと思います。 後で考えると、これが学校での人間教育。社会教育だと思いました。 ところで、話を元に戻しますと、教誨師の先生方の共通していた、教会へ被収容者が来られたときに教会がどのように対応すべきかについて、「イエス様ならどうするだろう」と考えます。という事でした。 また、分団での話し合いの中で、新来者で、被収容者が来られたとき、どのように紹介するかは、信頼できる役員さんにだけお伝えし、たの教会一が根掘り葉掘り聞かないような対応をお願いする。・・・今日の聖書箇所についてのお話しとか説教のお話しに持って行くとか・・・かな? また、被収容者か分からない場合もありますので、教会の新来者カードに、紹介はして欲しくない。紹介して良い等の蘭を作っておく事が大事、紹介して欲しくなければ、名前も紹介しないとのこと、新来者が見えていると言うことも言わないようにする。とのことでした。 今回、心に響いた事は、高橋由美子牧師(教誨師)のパワーポイントで紹介された、マザー・テレサの言葉でした。レジメの印刷がなかったので、 記憶の範囲で、書きますと 思考に生きなさい、それが言葉になるから 言葉に生きなさい、それが行動になるから 行動に行きなさい、それが習慣になるから 習慣に生きなさい、それが性格になるから 性格に生きなさい、それが運命になる意から と、わかりやすい言葉で、考えや思いが言葉から行動にそして、その人の運命にまで関わってくるという。このマザー・テレサの言葉から、聖書のマタイ5章の「腹を立てる」という思いが、人を殺す事に繋がる御言葉を想起しました。 以上。 2024年11月29日(金)受洗準備会(78歳の方)の教本としている、 「10代と歩む・洗礼・堅信への道」の『十字架と復活』56頁に、 ガラテヤ書3章13〜14節を引用して、『3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、 キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、 また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。』 と記されていますが、アブラハムに与えられた祝福が、なぜ、 キリスト・イエスにおいて、異邦人に及ぶか?について、パウロも言及していないようです。 が、創世記12章2〜3節に記されていることが、このガラテア書の記されている根拠になっている と思われます。 創 12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める /祝福の源となるように。 12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し /あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 2024年10月1日 同じZOOM旧約ゼミの聴講を受けている西川優子先生よりメールをいただき >コーフェル(出エジプト21?30など)ということですので 出エジプトの前後を読んで、21:30〜32が、 人間の命の代償として銀30シェケルとされていて イエスの裏切りの代価と一致しました。 また、出エジプト21:17の引証聖句が、マタイ・マルコに繋がって居てビックリでした。 レビ記の27章をきっかけに、出エジプト記21章へ マタイのイエスの裏切りの代価とユダの銀30枚を祭司が受け取らないことが ユダの死に繋がった事の確証を得ました。 2024年9月28日の朝 朝起き抜けのボーとしているとき レビ記27章の私が拘ったところ、ユダのイエスの裏切りの代価銀三十枚と関連があるかもと、 頭をよぎりました. 今の4年生は、卒論で忙しいので、お伝えしませんが、 Jバイブルのマタイ伝のユダの銀30枚を追いかけて、 ユダが銀貨を返しに行って、祭司が受け取るか、受けとらないかが、 ユダの裏切りの罪に対して、ユダが身を捧げるか否かにかかっていたのではないでしょうか? という内容です。 2024年7月5日、朝起きぬけの夢 @竹馬の友の故・松本幸雄さんをしのぶ会のお知らせを頂く。4人の女性と一人の男性が企画されている。場所や日にちも分からない。 Aそれに続き、昨日の旧約聖書学の聴講に関連して、昨日は出ていない場所ですが、安息日に働かず、聖なる集まりに参加しなさい。休みの日は、礼拝に参加しなさい。 ・・・黙想・・・ 幸雄ちゃんは、クリスチャンではなく、教会へも行っていない。しかし、四谷から松戸に引っ越して、初めてくれた電話は、「癌末期で入院しているとのこと」あくる日、お見舞いに行く。 彼は「四谷の実家を売ったから、罰が当たったかな?」と、自分本位な生き方を反省するような言葉で、彼らしくない言葉であった。 彼はお人よし過ぎるくらい、狡さのかけらもないから、世の中を行きにくく、会社も早期退社、 結婚も連れ合いの打算で別れざるを得なくなる。 専門学校で学んだ、電気機械の知識は専門誌を読み熟知しているが、 年金制度や健康保険制度など社会のことには疎いし、世の中を信用していなかった、大人の世界の狡さを痛いほど知っていたので、大人の社会に入り込めなかったのだと思う。 猫をかわいがっていた、猫を保護するグループの方たちと交流があり、その方たちが、彼に最後まで寄り添ってくれた。お墓から、財産の処分、猫のために遺産を残すことなど 彼が、私に連絡して、確認したかった事は、「罰」が当ったか」どうかではなく、私がクリスチャンであることをよく知っているから、天国へ行かれるかどうかを聞きたかったのだろう、と察しがつきました。「幸雄ちゃんは、誰からも恨まれていないし、憎まれてもいないよ。」 「神様も幸雄ちゃんを受け止めてくれるよ。」と話しましたが、お祈りすることはしませんでした。 ・・・黙想A・・・ そんな流れから、ノンクリスチャンで、教会のハードルの高い、幸雄ちゃんのような方たちの、安息の場所、聖なる場所を提供出来たらよいと思うに至る。 夕拝は持たれている教会はあります。 祈祷会は、水曜日、木曜日に持たれている教会が多いです。 教会へ来られる方は、月、火の休みの方たち、理美容で働いている方たちの行く場がないかもしれません。 リモートの礼拝を考えて、教会のハードルを低くする方法もあるかと思いました。 家庭礼拝も思い浮かびますが ZOOM礼拝のほうが、ハードルは低いかと思いました。俗にいう、伝道礼拝のように求道者向けの聖書個所と説き明かしをしたらどうか? と思い浮かびました。 2024年6月23日主日礼拝説教で、説教原稿を作ったとき、読み直した時は、十分理解出来ていたのですが、講壇で話す際に、言葉では表しにくいイメージが湧いてきました。 2024年6月4日、昨日の山形県の牧師研修会で関戸先生のお話を伺い、フィリッピンでのリバイバルのことが、活き活きと語られ、フィリピンの生活状況が、戦後の混乱していた日本のようであったことを伺いました。いろいろなものが足りない状況を若い牧師の伝道が成果をあげられて、若い人たちの魂を響かせることが出来、リバイバルが起きたのであろう。・・・なんて、客観的になってはいけない、今、山形県で、上山市で、リバイバルを起こすには? 私が、上山教会に遣わされたのは、前任の故・中村牧師との交流で、その大事な絆は、井上先生のブルームハルト父子の、1840年代に起きた、父ブルームハルト牧師の癒し、悪魔祓いによるものでした。 その癒しの教会を大事にしたいと思い、上山教会に遣わされてきました。 癒しは、いろいろな宗教で、いろいろな形で行われています。 キリスト教についての癒しについて、きちっと言葉にする準備と実践をしなくてはいけないと思っています。 ブルームハルトの癒やしは、 @教会の礼拝に出てもらう、・・・ロマ書12:1〜2 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 A礼拝後、牧師と話す。 ・・・願いを聞いて B癒やしのお祈りをする。 ・・・癒やしを願う、執り成しの祈り。 ヤコブ5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。 C握手や手当、按手を行う。・・・癒やしの手当 マルコ7:33 マルコ 7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 D悪霊を追い出す。・・・ただ、イエスのみ言葉を語った。 マル 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 マル 5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。 マル 9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 二三人寄れば、主が居てくださる。・・・マタ 18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。 正しい人の祈りは、病人を立ち上がらせる。・・・ヤコブ 5:15 愛がなければ、山を動かすほどの信仰はむなしい。 ・・・ Tコリ13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 神を愛し、自分のように隣人を愛しなさい。 ・・・マルコ 12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 愛は、耐える、支えるなどの動詞で、動名詞でもなく、分子でもありません。能動態の動詞なのです。名詞ではなく、形容詞ではなく 行う事なくして、愛はないのです。 子供から、お年寄りまで、すべての隣人を愛します。 隣人に足りないことを補充し、寄り添って支えます。 そのような、愛の行いは、戒めや律法で示された神の教えを破る事ではなく、 その愛の行いは、神の教えを守り、実践することです。 殺すことなく、生かし。盗むことなく、与えます。 姦淫することなく、寄り添います。 2024年3月24日の礼拝後の聖書研究祈祷会で、当日の説教を深める意味で、資料を作成して気が付かされたのは、Tコリ13章の「13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」に記されている。忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず・・・は、形容詞ではなく、名詞でもなく、動詞なのです。 動詞だとすると、解釈も違ってきます。 大きな違いは、愛は何かをすること、じっと耐える事、いずれにしてもエネルギーのいることです。 昨日、教会員にそのことをお話したら、一人の方は、「愛は、行う事でしょ!」と即答され、ほかの方が、何でわかるんですか?と問うと、説教でいつも言ってるじゃん。と言われ、ビックリしました。 今日の朝、6時に起きて、休みだからゆっくり寝ようと布団に潜り込み、うとうとする中で、エネルギー方程式が頭に思い浮かび、動体エネルギーと位置エネルギーが頭によぎり、耐える位置エネルギー、愛を行う動体エネルギーと浮かんできて、愛の律法を、数式化できそうと思い。朝食後に 数式にしてみました。 愛は、1コリ13章から、動詞であることから、アクションを伴うか、ノンアクションでもじっとして待つ、エネルギーを出さないで保持しておくことから 今朝、ひらめきを与えられ、動的なエネルギーと静的なエネルギー で表現され、動いているものは力として表現されると考えれば 力はF=Mα 動的エネルギーは Ev=MX^2/2 静的エネルギーは位置エネルギーで Eh=MgH とすると、神を愛することは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしててあなたの主なる神を愛しなさいという、神を愛するということは 心を尽くすということは、心を神に向けることで、静的なポテンシャルな動きとしてのエネルギーと考えると、位置エネルギーEmindでEMとしますと EM=MgH(tanA)・・・心を尽くすtanAは心の方向性<高さHに対する。> M:重さ、g:重力加速度 精神(φ)・思い(think=t)についても位置エネルギーと考えて Eφ=MgH(tanB)・・・精神を尽くすtanBは精神の方向性<高さHに対する。> Et=MgH(tanC)・・・思いを尽くすtanCは思いの方向性<高さHに対する。> ただし、A+B+C=π/2 (90度)、A≠0、B≠0、C≠0 としてはいかがでしょうか? そして、力はF=Mαでアルファは加速度です。そして、神への志向性の高さを考慮して F=Mαtan(A+B+C)とすると、Fをエネルギーに変換するには、時間で積分すればよかった?かと思いますのでEf=F・dt=Mαtan(A+B+C)・dt そして、力を尽くすとあるので、働きとしてのエネルギーも含めて考えると 力のエネルギーはEfプラス、動的エネルギーのEvを足したものと考えると 神を愛する戒め、神を愛するエネルギー=LGは LG=EM+Eφ+Et+Ef+Ev 神を愛するエネルギー=MgH(tanA)+MgH(tanB)+MgH(tanC)+Mαtan(A+B+C)・dt+MX^2/2 M:重さ(kg)、g:重力加速度(M/s^2)、H:高さ(M)、α:加速度(M/s^2)、dt:時間で積分、V:速度(M/s) と表すことができるのではないでしょうか? 上記の数式が神への愛のエネルギー方程式と言えるかもしれません。 また、第二の戒め、「己のごとく隣人を愛しなさい」も、同じような式で表すことができると思います。 神への愛のエネルギーと同じように、隣人を愛するエネルギーを使いなさいと考えて、間違えではないように思います。 なぜなら、神を愛し、神から愛されている、自分のように、隣人を愛するということだからです。方程式の各項目の係数やABCの角度が違ってくるとは思います。数量化する必要はなく、数式からその関係性を理解する助けになればよいかと思います。 愛とは、心、精神、思い、力を尽くす関係性が、エネルギーとして動きとして理解出来たらよいかと考えてみました。 数学か物理の高校の先生にチェックが必要です。 数式化できれば、図式化を試みて、理解の助けになればよいと思います。 3月の聖書を読んで祈る会で、マタイによる福音書5章を読んで、話し合う中、一般的に出来ないこと、「右の頬を打たれたら、左の方を出せ」、「腹を立てるな」など難しいことですが、それが出来ないと、教会は「地の塩、世の光」になれないのだ、と思わされました。 腹を立てない事、自分のおなかの中で納めれば良いのです。そして、神様にそのことについて腹を立てれば良いのです。ロマ書12章1〜2節「 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」 とある様に、私たちは、生きた生贄として、礼拝で主に捧げて、2節で、この世に倣わず、心を新たにして自分を変えていただきなさい。」と示されて居ます。 この世の人のようにではなく、神の御心にそう心に変えて戴く事が、私たちの捧げる礼拝なのです。また、それが私たちが負うべき十字架なのではないでしょうか!? 昨日、今日2024年1月24日の20時から、NHKのEテレで「強度行動障害」のことについて の放送があり、拝見していて、昨日の逮捕されてしまったベテランの専門家 が不適切な対応で逮捕されてしまったこと、母親の息子さんが落ち着く 「抱え込みをして、力が抜けた」と聞いたとき、動作法の抱っこ法だと思いました。 そこの施設では、人手が足りなくて、閉じ込めてしまったので、 不適切な対応で、障碍者虐待防止法に触れたのだと思います。 行動療法は、対処法として、対症療法的のように行われがちですが コミュニケーションをとるための療育に活用できる療法であると思います。 自閉症で重度の知的障害がある方の場合、聞くことでどこまでわかっているか? パニックのおさまり状況を抑える力に抗する力の身体でのコミュニケーションと合わせて オウム返しから、通常のコミュニケーションの確立にも、ボディータッチと体の部位の一致 などが。言葉と体の部位の一致からオーム返しの脱却を図り、身体の部位から別のものへと コミニュケーションの領域を広げていけるのではないでしょうか。 私は、20年以上前に片倉先生の本と抱っこ法のビデオ (石井哲夫さんの目の前で行動障害の方の緊張がほぐれる) や確か学芸大の先生がイフゼン(if then)的対応法によるコミュニケーション療法の講演か何かを伺い、 又、神奈川県の自閉症施設東山田工房で行っていたティーチプログラム(環境設定) を見学し、学習させていただきました。 環境設定(ティーチプログラム)、パニック時対応方法(行動療法)、コミュニケーション確律療育プログラムなど、あまり進んでいないことを思いました。 2018年まで新宿区の自立支援協議会に参加していて、在宅の方の強度行動障害の方のケアで、 ヘルパーさんが怪我をして、入れるヘルパーさんがいない。 などの話を聞き、自閉症(重度の知的遅れ)の方たちの療育プログラムが20年前から前に進んでいないと感じました。 2024年1月15日 山形県の牧師勉強会の月一回の定例会が、行われました。 前回からZOOMを利用した、ハイブリッドで、 鶴岡教会の八重樫先生・酒田暁星教会の関戸先生の参加も得られ、 山形六日町教会で波多野先生の司会で、私の担当という事で開催されました。 内容は、私の日本聖書神学校の卒業論文であります、「長血の女性の病の癒し」から発題させていただき、教会での癒しについて話し合われました。 私の体験した、教会生活の中で腰痛の癒し、又、手当による癒しについて、聖書の中に記されている事柄との神学的なアプローチを試みたものです。 今回の先生方のお話と準備する中で、時間をかけて、再度の神学的なアプローチを試見るとともに、教会の宣教と癒しという命題を与えられたかと思います。 2023-11-12の説教準備の中で、今回初めて、nestle-alandに当たらざるを得ない、 聖書個所と永眠者記念礼拝という中での説教で、天という位置づけに関して 書き換えられている、聖句はどんなものかを調べたくなり、nestle-alandの引照聖句 にも、参考にさせてもらいました。参考にしてください、 ギリシャ語フォントをJバイブルから、TIMES NEW ROMANに変えましたが、アスキーコード に対応していないので、ワード文書でアップしました。 まず、神学生の時に、説教準備の時間がなく、愛の律法のイエスと律法学者の 言葉の違いには、気が付いてはいたものの、そこで、マルコ福音書記者の意図を汲み取る 時間がなく、気になっていたので、簡単にメモしておきます。 |