たまえちゃんのリードオルガン

この物語は、当教会のバーデットオルガンを調査された佐藤泰平氏が、判明した事実をもとに創作された物語です。

『 たまえちゃんのリードオルガン 』

 私は古いリードオルガンです。音はかすかにしか出ません。外側はあちこち傷がつき、自分でもかなり気に入ってた左右の燭台もとっくの昔に失くなりました。もし、オルガンの中を見たいという人が来たら、私は「やめて!開けないで!」と叫んでしまいます。それほどいっぱいほこりがたまっているのを知っていても、私はどうすることもできなかったのです。
 私の名前はバーデット(Burdett)。日本ではあまり聞き馴れない名前でしょう。アメリカのイリノイ州・シカゴ市のオルガン工場で生まれました。ストップは七つで、風箱に製品番号二〇四八四の数字が刻印されています。生年月日は覚えていません。でも多分、一八七七年頃の誕生ではないかと思います。もしその通りなら、今年(一九九八年)で私の年齢は百二十一歳になります。あまりに年を取り過ぎたせいでしょうか、この頃、私は本当にオルガンだったのだろうかと考え込んでしまうときがあります。私の記憶は鮮明なところとあやふやなところが、もうないまぜになっていますが、私が誕生してからのこと、たまえちゃんのことなどをこれからお話していきましょう。

 私がシカゴの工場で梱包されて最初に運ばれたのは、シカゴから馬車で五時間ほどかかるロックフォードの小さな教会でした。教会の人たちが私を待っていて、頑丈な木箱から私が顔を出したときの大歓声、すぐに皆で歌った讃美歌を覚えています。
 それから十年後、教会のある青年が日本の伝道のために働く決心をして宣教師になりました。教会の人たちは青年に私を日本に連れていくよう熱心にすすめたのです。教会の物置に大事にしまって置いた木箱にまた入れられ、私は長い旅に出ました。暗い船底に閉じ込められたままです。誰にも話しかけず、誰からも話しかけられず、また、ぶつぶつとひとりごとも言えないつらい毎日が続きました。
 約一ヵ月半後、無事に横浜に着きましたが、すぐ小さい船に積み替えられ、やっと陸揚げされたのは、宮城県の石巻という活気のある港町でした。
 宣教師さんと私が落着いたのは石巻の教会です。教会といってもそのときはごく普通の民家を借りて使っていました。ですから私が置かれた部屋も板敷きではなく疊です。最初の日曜日の礼拝には、ロックフォードの教会のときよりも多勢の人たちが集まり、私を取り囲んで口々に言います。
 「あらららあ、立派だごだやあ。」
 「この風琴、アメリカから来たんだどやあ。」
 「風琴でねえんだど。こいづオーガンっていうんだどお。」
 「どいうな音っこ出んだべなやあ。」
 「早ぐ聞がせらいんちゃやあ。」
 「ほだほだあ。おらも早ぐ聞ぎでぇやあ。弾いでけらいんちゃやあ。」

 そして宣教師さんは割と上手に弾きました。といっても、左手は右手と同じふしを弾くのです。少しやさしい曲では、左手はその調のドミソだけを押しっぱなしで弾きます。曲の出だしと、曲の途中の数カ所、それに肝心の終わりが右手の音ときれいにとけ合って響くわけですから、それはそれでいいことにしておきましょう。ところが音が濁るときには眉を寄せ、音が合ったときにはホッとした顔をする音感のいい人もいました。私のすぐ前で熱心に歌っていた若い人です。宣教師さんはもう夢中ですから、その青年の表情の変化に気づく余裕など全くありませんでした。
 私はそれ以後、毎週日曜日の日曜学校・朝の礼拝・夕方の礼拝や祈祷会での仕事、また、あちこちの信者さん宅で開かれる家庭集会に荷車に乗せられて参加するなど一生懸命に働きました。もちろん、平均して年に四・五回ぐらいある結婚式やお葬式でも私は精一ぱい歌いました。
 歌といえば最初の頃、おかしく思ったことがあります。「エンヤードットゥ、エンヤードットゥ、まつしーまーの……」と、世に知られたご当地の民謡を歌うときには、大きく口を開け、つやのある声で気持ちよさそうに歌う人たちが、なぜか讃美歌になると口を開けずに歌うのです。ですからちょっと陰気でくぐもった声になってしまいます。折角いい声を持っているのに惜しいなあと思っていましたが、いつの間にか私もそんな声に馴れてしまいました。

 何十年も働き、私はすっかり老けてしまいました。リードにはほこりがつまり、音の出ない鍵盤が増えてきました。風袋の角々に穴が開いたために、どんなに素早く交互に踏板を踏んでもすぐに風が逃げていきます。無理もありません。私が石巻に来てから八十二年も過ぎたのに、本格的な修理をする人に私はまだ出会ってなかったのです。石巻に来た頃の私の元気な音を知っている人はもう誰もいません。大修理さえすればまたしっかりと歌い出すと考える人もいなかったようです。

 エレクトーンが流行っていた頃、教会は礼拝堂を週の何日か、ある音楽教室に貸しました。そしていつの間にか、私の代わりに教師用の電子楽器が礼拝で使われるようになったのです。当然、私の出番はなくなりました。
 ちょうどその頃、教会学校の礼拝でオルガンを担当するようになればと牧師夫人が考え、オルガンを教えていた生徒がいたのです。相澤たまえちゃんという小学六年生の素直な女の子でした。やがて、オルガンを勉強するには家に楽器がある方がいいという牧師夫人のすすめもあって、私はたまえちゃんの家に引っ越しすることになりました。たまえちゃんも、お家の人たちも、あまり音の出ない私をよくぞ迎えて下さったと思います。
 次の年に、教会はリードオルガン購入のためのバザーを開いたりしながら、十一ストップのヤマハ・リードオルガンの新品を買いました。

 それからの数年間、私は二階のたまえちゃんの部屋で二日に一度はたまえちゃんと一緒に歌えたのでとても幸せでした。譜が読めるたまえちゃんはハ長調の「ひかりひかり」、へ長調の「いつくしみ深き」、変ロ長調の「きよしこのよる」などを楽譜通りに弾くのです。鍵盤をしっかりと深く押しながら、思うように音を出せない私の分までたまえちゃんは明るい、やさしい声で歌うのです。そして歌の終わりには必ず「アーメン」を付けました。私はそれを聴くたびに鳥肌が立つようにぞくぞくっとしました。衰えた私の耳に「いつかあなたも私と一緒に力強く『アーメン』と歌える日が来ますように」と神様にお祈りしながら歌っているように聴こえたからです。

 たまえちゃんが高校・大学と進むにつれて、私と歌う回数はめっきり減りました。それも仕方がないことです。念願の国際線のスチュワーデスになってからは、年に一回か二回ぐらいしか会えませんでした。
 ある日の深夜、下の様子が変なのです。二階の壁際にいる私のところにも異様な雰囲気が伝わってきました。低い声が、それも緊張した声がひっきりなしに聞こえてきたのです。
 後で分かったのですが、東京から電話が入り、たまえちゃんが乗っていた車が事故に合い、たまえちゃんが亡くなった、とのいたましい知らせが届いたのでした。
 石巻でのお葬式には、私は何の役にも立ちませんでした。二十五歳でこの世を去ったたまえちゃんに、一緒に歌った讃美歌を歌ってあげられなかったのが、とてもとても残念でした。

 私はそれから十五年の間、たまえちゃんの部屋でじっと眠り続けていました。教会に戻していただけませんかと、牧師さんが訪ねていらしたときに、ご両親は「たまえの形見ですから……」と、はっきりお断りしたようです。
 突然、今年の九月十一日、教会の牧師さんと楽器店の人たちが来て、私は二階からおろされ、そのまま、勝浦オルガン工房に運ばれました。私を教会に戻した方がいいだろうと、たまえちゃんのご両親がそうお考えになったのだと思います。車に乗せられた私を見送るご両親のお気持はどんなに切なかったことか、考えるだけで私の胸は痛みます。
 勝浦さんは私を分解し、きちんと手入れをして、昔のシカゴの工場のときのように整然と組み立てて下さることでしょう。風袋も新しく貼り替えて丈夫な肺にしてくれるはずです。そうなれば、ロックフォードで張り切って讃美歌を歌ったあの時のように若々しい声で歌えるかもしれません。もし、歌えるようになったら、どんな歌よりもまず最初に、たまえちゃんと一緒に歌っていた「ひかりひかり」と「いつくしみ深き」を歌いたいのです。そしていつか、誰れか弾いて下さる方がいたら、ギルマンという人が作曲した「葬送行進曲と天使の歌」をたまえちゃんのために心を込めて歌いたいと願っています。

 私はもう生まれ故郷のアメリカには帰りません。日本の、石巻の教会で私の長い生涯を終えることにします。二日に一度は、たまえちゃんが好きだった讃美歌を歌いながら……。
 「いつくしみ深き 友なるイエスは、
  われらの弱きを 知りて憐れむ。
  悩みかなしみに 沈めるときも、
  祈りにこたえて 慰めたまわん。
           アーメン」

1998年11月6日
©佐藤泰平