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石巻栄光教会役員の牧師・川上です。 KGさま、書き込みをありがとうございました。
>聖書に出会ってから、 >もわっとした感情があるのもまた >事実なのです。
というお言葉を、 とてもうれしく、 意味深く拝読しました。
聖書の中に、 イエス様が
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
と、ヨハネ福音書10章で 語っておられたことを思い出しました。
教会員でなくても、 洗礼を受けていなくても、 神様の声を聴き分ける方がいる。 そのことに、大きな励ましを受けました。
添付ファイルは、 先日の地域合同の勉強会での 資料となります。その中に、 「主の祈り」の 教会用語訳と、 現代一般語訳の 対訳を掲載しました。
「主の祈り」は、 聖書のルカ福音書と そしてマタイ福音書に書いてあります。
通常使われる「主の祈り」は、 マタイ福音書のもので、 「私も赦すから、赦してください」 となります。
そして、 「赦さないと、赦されない」 ということがはっきり語られる。
確かに、人を憎んで呪っていると、 自分も、傷みます。 いつまでも、解決が訪れません。
でも、やめられない。 ゆるせない。 だから、わかっちゃいるけれど、 自分を傷つけてでも、 人を憎み、呪ってしまう。
そういうみじめな人間の様子を、 「罪びと」といいます。 そういうみじめな様子を、 東北の言葉では 「あっぺとっぺ」というのです。
ルカ福音書は、 そのことを意識して、 少し違う祈りの言葉になっています。
つまり、 「人を赦せないみじめな私を赦してください」 と、まず、祈るのです。
それから、もう一つ、 「主の祈り」で大事なことは、 「私たち」という主語に在ります。
人を赦すことは、難しいことです。 それは、一人ではできない。 だから、仲間と一緒に、 神様に力を求めながら、 努力を続ける。
教会は、その仲間が集う場所です。
赦せるから、教会につながるのではありません。 赦せないから、教会を必要とします。
解決へ進むために、洗礼を受けます。 解決した人のために、洗礼があるのではありません。
そこは、とても大切な点だと思いました。
聖書を通読されたこと、 とても素晴らしいことでした。 それであればぜひ、 『アーミッシュの赦し』を 読んでみてください。 聖書をどう使って、 「赦すという文化」を 身に着けるのか、その 実際の具体的な事例が 丁寧に書かれています。
以上、返信をしてみました。 またどうぞ、コメントをお寄せ下さい。 KGさんのために、お祈りをしています。
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