3月のおたより

 昨年7月のおたよりで、当教会のリードオルガン1台が、教区センター・エマオのリード・オルガンのメンテナンス・クラスで修理・調整され、礼拝堂に設置されたことをお伝えしました。

 今回さらに1台が同様に修理・調整され、教会に帰ってきました。その修理段階で、オルガン内部に製造番号の刻印が見つかり、製造年が1913(大正2)年であることが判明しました。この翌年、当教会は東三番丁にデフォレスト記念会堂を献堂していますから、この完成に合わせて入手、用いられたものと思われます。その後、このオルガンは月見岬キャンプ場の小屋に設置され、青年たちの礼拝に用いられました。

 1945年7月、仙台空襲でデフォレスト記念会堂は焼失。そこで礼拝のため、このオルガンを運ぶことになりました。青年たちが月見岬からオルガンを船に乗せ、塩竃からはリヤカーに載せて仙台まで運んできたそうです。

 1996年、月見岬にジレットハウスが献堂されて、このオルガンは再び月見岬で用いられましたが、数年前に風袋が破れて使えなくなっていました。この度、修理のためオルガンを解体すると、ほとんど全ての部分に傷みが進んでいることがわかったそうです。風袋やバルブの修理、鍵盤まわりのフェルトの取替え、さびた金属部品の研磨、緑青のついたリードは酢で洗ってきれいにされ、板に生じた割れ目には薄い板が挿し入れられるなど、ていねいな修理がなされました。新たに譜面台と椅子も作られました。

 ストップを持たない総2列構造の小型なものですが、専門家の方から “響きの美しさ” の太鼓判を頂きました。この3月12日の創立130周年記念礼拝では、その内103年を歩んできたこのオルガンの響きで、主なる神と代々の先人たちを思いつつ賛美をします。心をこめ、大切に修復くださった皆さんに感謝します。

東日本大震災6周年を覚えての礼拝 「祝福があるように」

ルカによる福音書 13章31~35節
申命記 32章10~11節

 

 2011年大震災が起こった2日後に共にまもったのもレント第1主日の礼拝であり、主イエスの受難の使信がより深く響いたことを思い起こします。震災の被害にあっては私たち人間の小ささが、引き起こされた東電福島第一原発事故にあってはその驕りが露わにされました。

 主イエスは受難を予感しつつ、33「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進」む、32「悪霊を追い出し、病気を癒」す、と言われました。この主が被災地にも生きて進み働かれる姿を仰ぎつつ、私たちはあの時を歩んできたように思います。そしてこの主に連なるように、多くの人が働きを捧げたのでした。そうした中小さな一人が助け起こされているならば、神の国は実現しつつあるのだとの主イエスの言葉(7:22)に励まされました。

 一方、主なる神の大いなる慈しみと育みにもかかわらず(申32:10~)、この世はこれを無視し抗い自滅へと向かおうとするのです(34~35節)。35「主の名によって来られる方に、祝福があるように」との言葉は、受難待ち受ける都エルサレムに主イエスが入場された際の群衆の声でした。世と私たちの罪の赦しと解放のために主が十字架へと進まれたその真実を受けとめ、この言葉が再び聞かれるときに、35「祝福」は広く分かち合われるのだと告げられています。

「神の御心ならば」

使徒言行録 18章18~23節
箴言 16章1~9節

 

 パウロが第二伝道旅行を終えて22「アンティオキア」に帰着、しばらくして第三伝道旅行に出発した箇所です。まず言わば喧嘩別れした相手である22「エルサレム」教会 (ガラテヤ2:11~) を訪問していることに驚きます。意見は異なっても、お互いは主なるキリストを宣べ伝えるパートナーであるとパウロは確信していたのでしょう(ガラテヤ2:9、フィリピ1:18)。

 また第二伝道旅行の最後に宣べ伝えた19「エフェソ」は、パウロにとって思い入れのある町だったはずです。旅の当初伝道を計画しつつ、主に阻まれ断念した経緯があったからです(16:7)。約3年ぶりに訪問を許され、町の人々にも好意的に迎えられ、うれしかったことでしょう。が、パウロは21「神の御心ならば、また戻って来ます」とエルサレムに向かったのでした。そしてこの21「御心」は第三伝道旅行において、成就しました。

 9「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」とあります。 9「自分の道」に力を尽くしつつも、大いなるまなざしの内にその私が捉えられていることを知る者の安心、そして強さを思います。

 1886年押川方義は、仙台に英学校を創るにあたって当時ライバル関係にあった新島襄を自らの教会 (現・仙台東一番丁教会) に招き、新島は十字架上で敵のために祈ったキリストの広く高く深い愛こそが私たちを引き寄せまた歩ませるのだと説教しました。自らの思いを超えた21「神の御心」を仰ぎ、この二人もまた信頼を交わしたのでした。

「わたしの民が大勢いる」

使徒言行録 18章5~11節
列王記下 6章15~23節

 

 パウロは 1「アテネを去ってコリント」に着いたときのことを、「わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Ⅰコリント2:3)と振り返っています。と共にこの地で「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(同2:2)といいます。

 コリントは要衝にあって繁栄した、またそれゆえ世俗的でもある港町でした。宣教を開始したパウロは頼もしい協力者に出会いましたが(2・7節)、激しい迫害にもさらされました(6・12節)。

 そうしたある夜、パウロは幻の内に主から語りかけられました。 9「恐れるな。語り続けよ。…この町には、わたしの民が大勢いる…。」この主の言葉と、先のパウロの決意とは響き合っているように感じます。自らの非力を振り返り、パウロはこのとき 9「恐れ」の中にあったのではないでしょうか。でも、自らもこの町もすでに主の慈しみの眼差しの内に置かれていること、そして主はこの先の祝福を見通しておられることを知らされ、パウロは自らの役割に向かう決意を新たにしたのでした。

 敵軍に包囲されうろたえる従者に預言者エリシャは16「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が…多い」と呼びかけ、背後にいる天の軍勢を見せたのでした。この箇所は“何を見るか”がテーマになっています。エリシャは目に映るもののその先を見通す眼差しで、恩讐を越えて事を平和裏に解決してしまいました。

 主イエスがいつも来たるべき祝福から、今のあり様をご覧になっていたことを思い起こします(ヨハネ9:3、マタイ5:3、マルコ4:31等)。この主に信頼しつつ、それぞれに与えられた働きに向かいゆきたく願います。

2月のおたより

 降雪の量はさほど多くはありませんが、やはり寒さのこたえる仙台です。皆さまにまもりをお祈りします。

 まもなく3.11、東日本大震災発生から6年を迎えます。祈りのうちに、あの時と今を結び合わせて3.11を過ごしたく思います。世界各国からも、この日を覚えますとのお知らせが届いています。

 3月11日(土)当日行われる、記念礼拝・コンサートのご案内をします。どうぞお出かけください。

 

 <東北教区 東日本大震災6年記念礼拝>

  14:30~  日本キリスト教団石巻山城町教会 にて

  説  教  佐藤真史 牧師 (東北教区被災者支援センター、いずみ愛泉教会)

  主  催  日本キリスト教団東北教区

   ※  仙台北教会より、自動車乗り合わせで出かける予定です

 

 <超教派による 東日本大震災追悼記念礼拝>

  14:00~  日本キリスト教団仙台青葉荘教会 にて

  メッセージ  潮 義男 牧師 (仙台青葉荘教会)

  特別賛美  Migiwaさん (ゴスペルシンガーソングライター)

  主  催  仙台圏宣教協力会

 

 <3・11祈りのコンサート>

  14:00~  電力ホール にて  入場無料

  W.A.モーツァルト 「レクイエム」 K.V.626   指揮:佐々木正利

  主  催   「3・11祈りのコンサート」実行委員会

 

「神の顔」

出エジプト記 20章2~3節、33章20~23節
コリントの信徒への手紙 一 13章12~13節

 

 説教  北 博 兄 (東北学院大学文学部総合人文学科教授)

「真ん中に立ちなさい、手を伸ばしなさい」

マルコによる福音書 3章1~6節
詩編 85編9~14節

 

 今月11日は、教会・信仰者の社会的責任を覚える“信教の自由を守る日”です。混迷する時代状況にあって、世界も日本も保護主義そして利己主義的傾向を強めています。人権・平和・民主主義…といった追い求めるべき共通の価値が損得勘定に追いやられ、再び危うい道へと進むことを恐れます。

 詩85編は、バビロン捕囚から帰還を果たしつつも復興の困難に直面した人々に語られた歌と言われます。 9「愚かなふるまい」を繰り返す世界に、希望はどこから来るのか。それは 9「主」が 9「平和を宣言され」るところに始まると告げられています。人の世界で11「まこと」と11「正義」を追求することと、11「慈しみ」と11「平和」に生きることは多くの場合相反するのです。が、主のみ業にあってはそれらが11「出会い」11「口づけ」すると印象的に語られています。さらに主は12「天から」13「良いものをお与えになり」13「わたしたちの地は実りをもたらします」と、神と人が和らぐ中で被造世界全体に平和が実現していくとあります。

 この平和の宣言の実現としてもたらされたのが、主イエス・キリストの降誕と十字架の出来事にほかなりません。この主の宣言を受けとめ応えるべく、私たちそして世界は求められています。

 主イエスは、人を道具化するような世のありさまを悲しみ怒りすら表されつつ、 3「真ん中に立ちなさい」 5「手を伸ばしなさい」と呼びかけられました。小さな一人が尊ばれ自らを発揮できる、そうした社会を求めそれぞれに働きたく願います。

「知られざる神に」

使徒言行録 17章22~34節
申命記 30章11~20節

 

 第二伝道旅行でパウロはパルテノン神殿がありギリシア哲学・学問の中心地アテネを訪れ、多くの16「偶像」さらには23「知られざる神に」と刻まれた不思議な祭壇を目にしました。多くの神々を崇めその守護にあずかろうとしていたアテネ人は、洩らした神の罰があたっては大変とこのような祭壇をつくったのでした。

 ここに願望の写し鏡としての信仰、同時に真の神への渇望を見たパウロは演説を始めました。28節で多くの神々を崇めるギリシア詩人の言葉を引用しつつ、正反対の結論へと進んでいきます。すなわち私たちが生きて今を歩んでいるのは神の大いなる恵みの内に置かれているのに他ならず(25~26節)、私たちが神を知る以前に私たちは神に知られているのであり、しかも私たちも神としっかり視線を合わせることを求めておられる(27節)と語ったのでした。30「悔い改め」とは方向転換することです。神を崇めると言いつつ実は自己中心なあり方から、真の神に生かされている自らを感謝する生き方への転換をパウロは説いたのでした。

 彼が言うように、真の神を見出すことは難しいことではありません。私たち自身がすでにこの神に知られ、その恵みの内に置かれているからです(申30:11~14)。一方、私たちが歩む世には滅びに至る誘惑もあります。真の神と視線を合わせつつ、15「命と幸い」へと至る歩みを選び取りたく願います。

「解放の喜びを告げた者」

使徒言行録 16章16~34節
エレミヤ書 50章33~36節

 

 海峡を渡りヨーロッパでの宣教を開始したパウロとシラスは、激しい迫害に襲われました。16「女奴隷」を悪霊から解放したところ儲け口を失った主人たちが怒り、群衆を焚きつけたのです。不当にも二人は鞭打たれ、獄に囚われました。

 ところが二人は獄の中で25「賛美の歌をうたって…祈って」いたといいます。その姿は25「ほかの囚人たち」の心を動かし、さらには27「看守」をも回心させるに至ったのでした。

 ここには、捕えさせた者・囚われた者・裁いた者・その者に仕えていた者…のいったい誰が真に自由であったのかとの問いがありましょう。金銭でも権力でもなく真理に仕えた者が真に自由であり、解放の喜びを告げたのだとの証言されているのです。

 オバマ前アメリカ大統領は退任演説で、生命・自由・幸福追求という誰もが有する権利のために多様性と開かれた態度をもって民主主義を追い求め続けることの必要を訴えました。一方トランプ新大統領は、経済的繁栄とアメリカ第一主義を求めると就任演説しました。世の諸力の誘いは今日の世界と私たちにも働き、何を選び取るのか私たちは問われていることを思います。世の力がいくら33「抑えつけ、解き放つことを拒んで」も、34「贖われる方は強」く解放をもたらされるとのメッセージに励まされ、真理を求めて進みたく願います。

「その幻を見たとき」

使徒言行録 16章6~15節
詩編 23編1~6節

 

 長年の同労者バルナバとも別れたパウロは、「シラス」(15:40)・ 1「テモテ」を連れて第二伝道旅行に出発しました。興味深いのは、ここで突然10「わたしたち」との一人称が現れることです。“我ら部分”と呼ばれるこうした個所は16:10~17、20:5~15、21:1~18、27:1~28:16にあり、パウロの同行者が記した旅行記だと考えられます。使徒言行録の著者ルカが書いた可能性もあります。いずれにしてもアンティオキア教会を離れたパウロは、少数の仲間とこれ以降の働きに向かったのでした。

 ところが一行は 6「アジア州で…語ることを聖霊から禁じられ」、さらに目指した進路も 7「イエスの霊」により阻まれるのです。具体的にはよくわかりませんが、計画は頓挫し意気阻喪し苛立つような状況に追い込まれたということです。第一伝道旅行で聖霊の導きと励ましに支えられた(13:4・52等)パウロは、でもこのたびの逆境にも自らの思いを超える神の指し示しを見たのでした。

 そのような中で見た幻に応え、一行はへレスポントス海峡を渡り 9「マケドニア州」へと上陸しました。こうして彼らの思いを超えて、福音はヨーロッパにもたらされることとなったのです。

 詩23編は、時に厳しく響く 4「鞭」 4「杖」も命への導きであり励ましであると語ります。試練をも含めて羊が羊飼いを信頼して安んじるように、主なる神の導きを仰ぎたく願います。