新年礼拝 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」

マルコによる福音書 12章13~17節
申命記 10章12~22節

 

 本日の説教題は、17節の口語訳によります。カイザル(カエサル)はもともと固有の家族名でしたが、やがて歴代のローマ皇帝の称号となっていきました。対立が深まりイエスを殺そうと考えていた人々(3:6、11:18)は、一計を案じ問うたのでした。14「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」。これはローマ帝国から課されていた人頭税のことで、ユダヤ人には占領国への従属を象徴するものとして悩みの種となっていました。14「納めてはならない」との答を引き出せば反ローマ主義者としてイエスを告発できる、14「納めるべき」と言えば民衆は離反する、そうした15「下心」が込められていました。

 このとき主イエスは、17「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われたのでした。これは一見納税を是認したように見えて実は、皇帝はあなたたちはそして誰もが本当に17「神のもの」を17「神に返し」ているかとの深く鋭い問いかけの言葉です。

 14「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」と告げられています。殊に人間は神の像として、そしてそれゆえに応答責任を帯びた者として造られていると聖書は語ります(創1:27)。世界も歴史もさらに私たち自身も17「神のもの」であり、大いなる恵みのもとそれらの一部を委託されて私たちは今を歩んでいます。これらの聖書の指し示し、そして主イエスの問いかけを今日の世界と私たちは心して聞かねばならないでしょう。17「神のもの」を経済・国家・主義主張…で支配し、私物化しようとする諸力が跋扈している時代だからです。

 15「デナリオン銀貨」には、ローマ皇帝の16「肖像と銘」が刻まれていました。それ以前に、この年に世界にそして一人一人に“神の像”がしっかりと刻まれている、そのことを心して与えられた2018年に踏み出したいと願います。

「つまずきの石」

ローマの信徒への手紙 9章30節~10章4節
イザヤ書 8章11~15節

 

 32「つまずき」とは順調な歩みに生じる思いがけない失敗であり、普通は避けたいものであるはずです(マルコ4:17、ルカ17:2等)。が伝道者パウロは33「…つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と言うのです。

 十字架の前の晩、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ14:27)と予告しました。事実、29「わたしはつまずきません」(同14:29)と言い張っていたペトロはじめ、皆が逃げ去ってしまったのでした(同14:50)。十字架が神の大いなる救いの計画であるなどとは、思いもしなかったからです。

 パウロも当初そう考え、教会を迫害したのでした(ガラテヤ1:13等)。が、回心の出来事を通して、一見無価値に見える十字架こそ 4「信じる者すべてに義をもたらす」救いの業であることを知ったのです。

 弟子たちもパウロもこうした32「つまずき」の経験を経て、破れを抱える自らをも招き救いにあずからせる神の慈愛に出会ったのでした。シオンに置かれた33「つまずきの石、妨げの岩」とは、主イエスの十字架の出来事を指しています。

 大国アッシリアと反アッシリア同盟の狭間の中で動揺するB.C.8世紀のユダ王国にあって、預言者イザヤは力でも12「同盟」でもなく13「万軍の主をのみ」畏れよと説き、もし民が人間の知恵に頼りあらぬ方向に進むのなら主ご自身が14「つまずきの石…妨げの岩」となられると告げました。

 できれば避けたいつまずきにも、それまでの殻を破って新たな地平・進みゆく道を見出せとの主のみ旨が託されているのかもしれません。私たちの思いを超えるみ旨の中を、私たちは歩んでいます。

クリスマス礼拝 「遠く小さなものに」

マタイによる福音書 2章1~12節
ミカ書 5章1~3節

 

 主イエスの降誕の最初の証人となった者として、ルカによる福音書は羊飼いたちを、マタイによる福音書は 1「占星術の学者たち」を挙げます。聖書において、占いは退けられています(民23:23、申18:10)。み旨は信仰にあって訊ね求めるものであり、人為的なわざによって窺い知り得ないからです。なのに何故、その学者たちがクリスマス物語に現れるのでしょう。

 そのヒントが6節にあります。これはミカ5:1の引用であり、そこにははっきり 1「ベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者」とあります。そのような小さな村が救い主誕生の地に選ばれたことに着目し、マタイ福音書は 6「決していちばん小さいものではない」と書き換えたのです。遠く小さな者に近づかれこれを祝するために神が人となられた、これがクリスマスの出来事だからです。

 最初、学者たちは都 1「エルサレム」の王宮を訪ねたのでした。人の知恵としては、それが自然だったからです。が、そこに救い主はいませんでした。神が遣われた 9「星」に導かれ、彼らは寒村ベツレヘムの貧しい家畜小屋でその方に出会いました。その過程で、彼らは人の思いを超えゆくみ旨・み業を味わったのではないでしょうか。10「学者たちは…喜びにあふれ」11「ひれ伏して幼子を拝」んだのでした。

 伝道者パウロは私たちに向けても「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(Ⅰコリント1:26)と人の思いを超えた神の選びについて語り、それは十字架の愛に根ざしていると論じています。遠く小さな者への大いなる慈しみが主イエスの降誕、そして十字架の出来事に顕わされています。

2017 クリスマスメッセージ

 上の絵は、主イエス降誕後40日後の場面を、15世紀フランドル派の画家H.メムリンクが描いた作品です。エルサレム神殿の境内には、毎日待ち続ける老人二人の姿がありました。このシメオンとアンナは、救い主に出会えるとのお告げを受けていたのです。この日、幼子イエスが両親ヨセフとマリアに連れてこられたとき、二人はついに約束が果たされたことを悟り、幼子を抱き喜びにあふれて歌ったのでした。

 年を重ねた老人が希望にあふれ喜びを歌ったとのこの場面をもって、ルカ福音書はクリスマス物語を閉じます。二つの約束の成就を待ち望んだことが彼らの希望の源泉でした。一つは世の救い主をわが腕に抱くことができるとの約束、もう一つは救い主の到来により地の果てまですべての人が希望と平和にあずかり得るとの約束です。幼子イエスを抱きつつ、二人は自らに、さらには世全体に与えられた希望と喜びを噛みしめたのでした。

 シメオンとアンナはその日まで長く待ち続けましたが、今日の私たちはもはや待つことなくおいでになった幼子イエスを抱くことができます。なお悩みと課題が山積する世の中ですが、そこに大いなる希望の光を灯すべく救い主がおいでになり平和への道が備えられたことをそれぞれに受けとめ味わいたく願います。

 

「倍する喜び」

ルカによる福音書 1章67~79節
イザヤ書 65章17~20節

 

 ルカによる福音書は、預言者エリヤの再来として現れ救い主の道備えをする洗礼者ヨハネの誕生の次第からクリスマス物語を書き起こします。両親は子どもが与えられることを願っていましたが叶わず、すでに老齢に達していました。が父ザカリアに現れた天使ガブリエルはヨハネが生まれることを告げ、「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」(14節)と告げたのです。これをにわかには信じられなかったザカリアは、口が利けなくなりその実現の日まで黙考の時が与えられたのでした。

 ついにヨハネが誕生しその名づけの日、ついにほどけたザカリアの口からは賛美の歌がほとばしり出ました。ここでは、主がいにしえからの72「契約」73「誓い」を忘れることなく成就してくださった喜び、待ち望まれてきた69「救い」が今こそ訪れようとしている喜び、そして地は78「光」と79「平和」へと導かれゆくとの喜びが歌われています。当初、彼の願いは子が与えられることだけだったはずです。が、主の恵みと導きにあって、何倍もの祝福にあずかったのです。

 17「新しい天と新しい地」なる歴史の完成を仰いだイザヤ65:17~の預言において、主は18「民を喜び楽しむものとして、創造」し、主ご自身も19「わたしの民を楽しみとする」と告げておられます。この預言はバビロン捕囚帰還後の荒廃と苦闘の中で語られたものです。地に生きる者が課題の中にも喜びを数え、祝福と平和へと導かれゆくために主はみ子キリストとして降誕され、その道筋を照らしてくださいました。地と私たちはこの主のみ旨と計画の内に置かれていることを覚え、与えられた今を歩みましょう。

12月のおたより

 アドベントを前にした12月2日(土)、今年もクリスマスを待つ飾りつけがなされました。以前は大きく成長したモミの木を会堂に飾り、クリスマスツリーにしていました。オーナメントで飾られ、クリスマス・イブ礼拝の際には枝々にろうそくも灯されて、よろこびの訪れを告げていたのですが、力作業があまりに大変で数年前から設置されなくなりました。残念ですが、しかたありません。

 代わって、玄関を入ったホール壁面にご覧のスワッグ(壁飾り)が飾られるようになりました。モミの枝を組み合わせツリーのかたちに、Y姉が作ってくださっています。枝は毎年、カナダやアメリカ原産のモミを入手してくださっているとのこと。

 一年を通じて葉を保っているモミの木の緑は、永遠のいのちを表します。この世界と生けるものが神さまの祝福に結ばれゆくために、主イエスが幼な子として降誕くださった恵みを味わいつつ、クリスマスを過ごしましょう。

「信頼すべき約束」

ハバクク書 2章1~4節

ローマの信徒への手紙 15章7~13節

 

 讃美歌236 “見張りの人よ” の歌詞は、救いの到来を待ち望む歩哨と旅人のやり取りです。同じように預言者ハバククはあたかも 1「歩哨の部署」につくように時代を見つめ、与えられる主の言葉に耳を澄ませたのです。

 B.C.7世紀の末期、その時代には「暴虐と不法」(1:3)が満ち、主もそれを放置されているように見えました。嘆き、繰り返し求めるハバククについに主から与えられたのは、罪のイスラエルを「懲らしめるため」(1:12)「カルデア人」(1:6)すなわち新バビロニア帝国が攻め込んで来るだろうとの恐ろしい幻でした。

 救いはないのかと食い下がるハバククに、主は 3「もうひとつの幻がある」その 2「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように」を告げられたのです。それはすべてが正され祝福へと結ばれる 3「終わりの時」が 3「必ず来る」との約束でした。

 キリストは 8「神の真実を現すため」、その 8「約束を確証するため」に来られ、ついにはその喜びが世界を包むと伝道者パウロは語りました。

 2「走りながらでも読めるように」とは、どういうことでしょう。それは現実の山積する課題に右往左往しながらも、主の約束を携え行けということです。難しい時代をも 4「神に従う人は信仰によって生きる」と呼びかけられています。

「まことの光の到来」

ヨハネによる福音書 1章1~5節
イザヤ書 9章1~6節

 

 讃美歌230、p.ニコライ作詞作曲の“起きよと呼ぶ声”は“コラールの王”と称され、J.S.バッハもこの曲を引用してカンタータ第140番をつくっています。ニコライは16世紀後半にルター派を擁護して神学論争を戦わせた神学者・牧師でしたが、その渦中彼が住むドイツ中部ウンナの町をペストが襲ったのです。日に何十人もの葬儀を執り行う中、彼は虚心に開いた聖書そしてアウグスティヌスの『神の国』に慰めを得、“闇夜をつらぬき”(1節)与えられる神からの希望を市民に語ったと言います。

 1「闇の中」 1「死の陰の地」とは、B.C.8世紀に起きたシリア・エフライム戦争の状況を指しています。混乱の時代とは言え、イスラエル北・南王国の同胞同士が戦火を交えるという深い悩み・罪の現実に、希望の 1「光」が与えられると預言者イザヤは語りました。

 イザヤ50:10~11で、人は光を求めつつも手軽な11「自分の火の光に頼」り苦悩を増すであろうと述べられています。今日の世界と生きる者のあり様を指し示されているかのようです。

 まことの光は神から来たり、それは 5「ひとりのみどりご」の誕生において実現するとイザヤは語りました。この約束は700年後、主なる神ご自身の降誕においてもたらされたとヨハネ福音書は証ししました(1:1~5)。

「敵味方の論理」

マルコによる福音書 9章38~41節
イザヤ書 2章2~5節

 

 その宣教の業により主イエスの38「名前」が評判となり広まる中で、その働きに追随して働く者も出てきたのでしょう。がヨハネは38「わたしたち」使徒グループに38「従わないので、やめさせよう」としたのでした。しかし主イエスはその狭量さをたしなめて40「逆らわない者は…味方」なのだと教え、41「一杯の水を飲ませ」る友愛を求められました。

 確かに私たちはすぐに敵味方を区別し、その構造の中に閉じこもろうとする愚かさを抱えています。昔は戦でも名乗りを挙げ合うのが作法でした。が、大量の兵器を戦わせる戦争においては、兵士は道具とされていきます。今日は敵を視認する以前に、敵味方識別装置によって攻撃を加える時代となっています。

 新兵は敵を殺す道具として教育され、洗脳されます。アメリカ海兵隊員としてベトナム戦争に従事したA.ネルソンさんも多くのベトナム人兵士・民間人を“敵”として手にかけてきたといいます。が、“なぜあなたたちは私の国にいて、私たちを殺しているのか”と敵兵から問われたこと、そして戦闘中に飛び込んだ壕の中でベトナム人女性の出産に立ち会ったことが、私たちは敵味方である前に人間なのだと思い起こさせたのでした。除隊後PTSDの苦しみを経て、ネルソンさんは自らの体験から戦争の現実を語る活動を続けられ、日本国憲法第九条を世界に広める働きにも関わられました。

 主イエスは自らを憎む者をも罪から解放するために、十字架へと進まれました。主イエスにとってはすべての人が味方だったのです。私たちを対立そして戦いへと誘う罪の支配をこそ敵とし、警戒する者でありたく願います(エフェソ6:12)。