「よく見えてきて」

マルコによる福音書 8章22~26節
詩編 66編5~20節

 

 今日の盲人の癒しの話は、7:31~の聞こえず話せない人の癒しとよく似ています。その人を22「人々」が連れてきたこと、主イエスはその人を連れ出し向き合われたこと、そして親しく触れて癒されたことなどが共通しています。

 一方「たちまち」(7:35)よく見えるようになったのではなく、主イエスが繰り返し23・25「両手」を置かれた点が異なります。24「見えるようになって」25「よく見えてきて」25「見えるようになった」にはすべて違った原語が使われており、この人が見るべきものをはっきり見えるようにされていった様子がわかります。また主イエスが繰り返して癒されたと記されるのも、珍しいことです。

 前の箇所には18「目があっても見えないのか」との、弟子たちに対する言葉がありました。この後も彼らは見るべきものを必ずしも見通せず(9:6・32、10:38、14:40等)、主イエスの捕縛に際しては皆逃げ出してしまう有様です。が、主イエスは彼らを捨てられませんでした。むしろ十字架をもって赦し復活をもって祝され、そこから彼らは福音を証しする者として立っていったのです。

 私たちも世も愚かさからの転回と歩み出しを繰り返し必要としており、主イエスはそうした私たちに繰り返し触れ粘り強く導いておられるのではないでしょうか。

 併せて開いた旧約の詩人は、出エジプトといういにしえの大いなる御業を仰ぎつつ、自らにも16「成し遂げてくださった」神の20「慈しみ」を感謝し証ししています。このように私たちも主の繰り返しての慈しみと導きにあって、今を得ています。感謝しつつみ旨を求めて与えられた今を歩むこと、それが主に応えゆく道であることを思います。

「なぜパンがないと議論するのか」

マルコによる福音書 8章14~21節
エレミヤ書 5章20~25節

 

 14「パン」は旧約・新約時代を通して、生活を支える主食でした。但し、今日のような小麦のパンはぜいたく品で(王下7:1等)、庶民はフスマ入りであったり大麦・雑穀で作った固いパンを食べていたようです。主イエスが19「五千人に…裂いた」のもヨハネ福音書によれば大麦のパンでした(ヨハネ6:9)。

 さて舟での移動に際し、弟子たちはうっかりしてパンを一つしか持って来なかったのです。彼らはうろたえ、論じ始めました。そうした弟子たちに主イエスは、15「ファリサイ派…とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と口を挟まれたとあります。それは、どんなパンでも良いわけではないぞ、との意だったと思われます。15「パン種」とは焼く際に用いる酵母ですが、これに雑菌が混じると糸をひいたり臭かったりひどいパンになるからです。

 でもその言葉を、弟子たちは自分たちへの叱責だと勘違いしました。彼らはパンがないことにすっかり縛られていたのです。主イエスはむしろそのような弟子たちのあり様をたしなめられました。

 主イエスのもと19「五千人」は19「五つのパン」を、20「四千人」は20「七つのパン」を分かち合い満たされたのです(6:30~、8:1~)。その私が共にいるのに、なぜパンがないと議論するのか、なぜ囚われているのかと嘆息されたのでした。

 エレミヤ5:20~には、根源なる神への信頼を忘れた民の罪が指摘されています。15「ファリサイ派…のパン種」とは自らこそ正しいとする頑なさ、15「ヘロデのパン種」とは力への信仰であり、こうしたものは神の大いなる恵みすら変質させると主イエスは指摘されました。「人はパンだけで生きるのではなく、…主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申8:3)と告げられたことを、今日の私たちも心に刻まねばなりません。

9月のおたより

 「今年のバザーはいつですか?」とのお問い合わせを頂くようになりました。当教会のバザーは11月の第2日曜、今年も11月12日(日)13:00~14:45に開催されます。

 ご承知の通り、各地の教会では昔からバザーが開かれてきました。古いところでは、神戸教会の婦人たちがバザーなどで資金をつくってフレーベル教育の指導者A.L.ハウ宣教師をアメリカから招き、1889(明治22)年に今日まで歴史を刻む頌栄保姆伝習所(現在の頌栄短期大学)と頌栄幼稚園を創立したという例があります。すごいパワーですね。このように学校や病院、福祉施設などを助けるためのバザーが、広く行われてきました。

 当教会のバザーの売り上げもそのすべてが、福祉施設や国際活動支援などに捧げられます。ですから、バザーで楽しむことがそのままチャリティ活動参加となるわけです。

 すでに準備委員会が開かれ、手仕事会も始まりました。みんながうれしく集い、意義あるバザーにすべく、力を合わせていきます。当日をお楽しみに。

「エッファタ - 開け」

マルコによる福音書 7章31~37節

イザヤ書 35章1~10節

 

 34「エッファタ」、これは主イエスが喋っておられたアラム語で34「開け」を意味する言葉です。口語訳聖書では「エパタ」と訳されていました。東京牛込に、エパタ教会があります。日本聾唖学校の歴史から生まれたこの教会は、今“外に向かって開かれた教会”を目指して歩んでおられます。

 ガリラヤ宣教に勤しんでおられた主イエスは、今日の箇所の前段で周辺の異邦世界に足を運んで働かれました。24節~に示唆されていますが、そこではユダヤ人と異邦人の壁を肌で感じられたことでしょう。そして今日の世界も互いの言葉通じず、分断と敵意を重ねるあり様を繰り返しています。ここで32「耳が聞こえず舌の回らない人」になさった主イエスの親しい癒しの業は、今日も求められていることを思います。

 大国に脅かされる情勢の中、主なる神の支配を見失い「見ることなく…聞くことなく…理解することなく」(イザヤ6:10)なった民の中に遣われた預言者イザヤは、主の救いが訪れる時 5「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開」き、主によってもたらされる喜びと平和の実現を味わうと語りました。

 見るべきものを見、聞くべきことを聞かせてくださいと、祈り求めねばなりません。また、この32「耳が聞こえず舌の回らない人」は周りの32「人々」によって32「連れて来」られたのでした。人を大切にし労する大切な交わりがあったのだと教えられます。私たちもかくありたく願います。

「賜物としての食物」

マルコによる福音書 7章14~23節
コヘレトの言葉 9章7節

 

 マルコ 7章には、 1「ファリサイ派の人々と…律法学者たち」と主イエスとが激しく対立したことが記されています。事は、何をどう食べるかについてのユダヤ人の慣わしをめぐってでした。主イエスはこれらが10「モーセ」の律法に遡ることを認めつつも、ファリサイ派らがそれらを私物化し他者を貶めていると厳しく戒められました。次いで食べ物は19「人の心の中に…ではなく、腹の中に入」るのだから、人を汚し得ないのだと主イエスは宣言されたのでした。

 コヘレトの言葉は人生の空しさを様々な角度から論じ続ける特異な書物ですが、神の恵みのもとに食べることについてはこれを讃えています(2:24、3:13、5:17、8:15)。そして、 7「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」と呼びかけるのです。但し貪欲や不公正なあり方は退けられており、(5:11・16、10:16)、食べることがいずれも神の祝福と結びあわされていることに留意すべきでしょう。

 今日私たちは飢餓と飽食、さらには食物の極端な商品化の時代に生きています。食物の基礎である“種”は今、一代しか収穫できないF1種が主流となり、遺伝子組み換えがなされ、一部企業による寡占化が進んでいます。日本では今年これに迎合するように、原種を都道府県が大切に管理するという “種子法” が廃止されてしまいました。

 食物は神の祝福・賜物であり共々に分かち合うべきものとの聖書のメッセージは私たちの生き方の指針であると共に、今日の世界に対する警告でもあります。主イエスは20「人から出てくるものこそ、人を汚す」と言われました。神の祝福をも侮り変質させていく人の罪・世の罪を警戒せねばなりません。

8月のおたより

 梅雨のはじめの頃には蒸し暑かった仙台ですが、ここにきて涼しい(寒い?)日が続いています。お米をはじめ、農作物への影響が心配です。

 さてそんな中ではありますが、こども活動「めぐみの森」は今年も「夏まつり」を開催します。26日(土)14:30~16:00、わたあめ・ジュース・ケーキ・スーパーボールすくい・工作コーナー・めぐみ劇場などなど楽しいコーナーが用意され、100円のチケットで全コーナーをまわることができます。ホール内で行いますので、雨でも心配ありません。

 この8月中旬から、園舎改築中の共同保育所「ちろりん村」さんが一時的に越してきて教会内で日々の保育を行っています。来年3月までの予定です。この子どもたちやおうちの方も来ていただけるとうれしいですね。どなたもおいでいただけます。おいでになりませんか。楽しみにお待ちします。

過去の夏まつりから

「通り過ぎられる主イエス」

マルコによる福音書 6章45~52節
出エジプト記 33章18~23節

 

 五つのパンと二匹の魚とで五千人以上を養われた(30~44節)後、主イエスは弟子たちと別行動をとられました。使徒たちの派遣(7~13節)に続き、やがては彼らだけで宣教しゆく時を見据えて訓練をしているようにも見えます。

 しかし漕ぎ出した舟は48「逆風」に阻まれ、弟子たちは苦闘していました。ご覧になった主イエスは48「湖の上を歩いて」そこにおいでになりつつ、48「そばを通り過ぎようとされた」というのです。一方、弟子たちは主イエスを見誤り幽霊だと恐れたのでした。

 旧約には、主が通り過ぎられたと記された箇所があります(出33:18~、王上19:9~)。モーセ・エリヤがいずれも窮地にあった時、主はすぐそばを通り過ぎることでその臨在を示され、彼らを立ちあがらせたのでした。

 その後、主イエスは50「わたしだ」と弟子たちを励まされました。これは十字架への捕縛において「わたしである」(ヨハネ18:5・6・8)と宣言されたときの言葉と同じであり、さらには主なる神がモーセに「わたしはある」(出3:14)とご自身を顕わされたことに重なります。

 主イエスの昇天の後、自らだけで歩み出した弟子たちは逆境に立たされた時、この出来事を思い出したのではないでしょうか。怖じ惑いそうになるときも主は近くにおられ、御業を顕わしてくださると。この主の臨在に導かれ励まされ、代々の信仰者たちはそれぞれの時代を漕ぎ進んでいったのです。

平和主日礼拝 「平和をつくり出す人」

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節
エゼキエル書 22章23~30節

 

 主イエスは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイ5:9、口語訳)と教えられました。しかし“積極的平和主義”といった言葉のもと軍事力が展開されるような今日にあって、語られる“平和”の意味は一様ではありません。主はこの言葉で何を指し示されたのでしょうか。

 英訳聖書はここに“peacemaker”との語を充てています。辞書を開くと、“調停者、仲裁人”とあります。旧約には、神と民との間で調停をしようとした人物が出てきます。アブラハムはソドムとゴモラのために「あなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(創18:23)と食い下がりました。出エジプトの指導者モーセも、過ちを犯した民もまた「あなたの民」(出33:13)なのですと旅路に同行を求めました。

 一方、今日開いたエゼキエル22:23~では、主が30「石垣の破れ口に立つ者を…探し求めた」とあります。B.C.6世紀、不正・強奪・抑圧が横行する南王国ユダにあって、その30「破れ口に立」って繕う者を求めたけれども30「見いだすことができなかった」のでした。こうして主の31「憤り」が下り、国は滅亡、民は捕囚に囚われていくことになります。2500年前のこの警告は、今日私たちのの世界にも向けられているのではないでしょうか。

 人と人のそして人と神の破れ口に立ち続け、ついに十字架へと登られたのが主イエスです。その業によって14「敵意という隔ての壁」は砕かれ、人と人がまた人と神が共に生きる道が拓かれたのだと告げられています。伝道者パウロはこの主に出会って、当時のユダヤ人と異邦人の破れ口に立ち橋を架ける働きに生涯を捧げました(Ⅱコリント5:18~等)。今日も様々なところに破れ口があります。そこに立ち、執り成そうとする者を主は探しておられる、その者には主イエスに連なる祝福が共にあるのだと呼びかけられています。