召天者記念礼拝 「安心して行きなさい」

ルカによる福音書 8章40~56節
詩編 116編8~14節

 

 今日の箇所では、違った状況に置かれた二人の癒しが組み合わされて語られています。主イエスと共に死にそうな42「十二歳ぐらいの一人娘」の許へと急ぐ会堂長ヤイロでしたが、そこに43「十二年このかた出血が止まらず」苦しんでいた女性が現れ主イエスは立ち留まるのです。父親ヤイロは気を揉んだことでしょう。そして、娘の死を告げる知らせが届いたのです。

 不思議に年数が符合しています。わずか42「十二歳」で生涯を閉じなければならないかもしれない、43「十二年」も苦しみ続けた、との違いはありつつも、ここには如何ともし難い中から叫ぶ思いが共通しています。そうした人のあり様に主イエスは立ち留まり、耳を傾け、み業を振われるのです。

 女性の苦しい43「十二年」を主イエスは48「信仰」と呼ばれ、48「安心して行きなさい」と救いを宣言されました。傷心のヤイロにも50「恐れることはない」と呼びかけ、娘を死から起こされました。彼らは身体を癒されただけでなく、どんなときにも祝し伴われる主を知ったのでした。詩編116編には、救いを経験した者の感謝と告白が歌われています。たとえ苦境にあるときも(10・11節) 9「命あるものの地にある限り…主の御前に歩き続けよう」と、女性またヤイロと娘もこのとき誓ったことでしょう。

 50「恐れることはない」48「安心して行きなさい」と呼びかけられる主に信頼し歩み得る、信仰者の生涯の幸いを思います。

「悪霊はどこに」

ルカによる福音書 8章26~39節
ゼカリヤ書 13章1~2節

 

 22「向こう岸に渡ろう」と嵐のガララヤ湖をも越えて主イエスがやって来られたのは、この地にも主の癒しを必要とした人がいたからでした。

 27「悪霊」が名乗った30「レギオン」とは、6000人から成るローマ帝国の軍団の名です。すなわちこの人は強大な非人間的力に捕らえられ、他者からのさらには自己からの疎外に苦しんでいました。主イエスは悪霊を豚の中へと追放され、この人を解放されたのでした。

 このとき悪霊は根絶やしにされた訳ではありませんでした。その力は仲間の解放を共に喜べなかった村人(37節)に及んだのかもしれませんし、この後主イエスを憎む者また弟子たちや群集にも働いて真理を証しする主イエスを十字架につけていくのです。その悪しき支配は主イエスの十字架の贖いと復活によって打ち破られましたが、その残滓は主なる神による完成の時までなお世界と生けるものを縛り支配しようと狙っていることを私たちは警戒せねばなりません(ゼカリヤ13:2)。

 ファンタジー文学を特集した『信徒の友』 2018年11月号でM.エンデの『モモ』が紹介されていました。少女モモがみんなの豊かな時間を取り返すべく対決した時間泥棒のことを、紹介者は今日のインターネット技術になぞらえていました。インターネットは一般人が国家や権力者に対抗するための有用なツールとしても機能していますからそうとも言い切れませんが、アメリカをはじめとする国々が運用するエシュロンのシステムによって世界中の通信が傍受・管理されているといった報道に触れるにつけて、祝されるべき命を支配しねじ曲げていこうとする27「悪霊」の脅威はなお今日的なことであることを思うのです。

10月のおたより

近年子どもが少なくなって、教会学校の礼拝がさびしくなっていました。でも考えてみれば、礼拝には子どもも大人もなくみんな神さまの家族!ということで、5月より“めぐみの礼拝”と名づけて誰もが参加できる礼拝としてリニューアルしました。

 世界のさまざまな賛美を取り入れてみる、聖書も出席者に読んでもらう、献金にあわせて一週のふり返りと分かち合いの時をもつ、などみんなでつくりあげる親しみやすい礼拝を心がけています。聖書箇所も歌詞もプログラムにプリントするようにしたので、あちこちめくることもなく、スムーズに礼拝が進むようになりました。

 今、お話は使徒言行録から引き続いて、教会草創期の信仰者の歴史を辿っています。

 こうして教会学校スタッフのほかに、早く教会においでになった大人の方も参加くださるようになってきました。あと、子どもたちがうれしく集うようになってくれたらいいなぁ、というのが祈りであり願いです。

「わたしの母、わたしの兄弟」

ルカによる福音書 8章19~21節
創世記 2章18~24節

 

 創2:18~は、結婚式の準備会の際に開く箇所です。18「人が独りでいるのは良くない」18「彼に合う助ける者」と、人のつながりについて多くを教えられます。また24「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。それまで育ってきた血縁の絆は尊く強いものですが、人格・愛の関係はそれを越えて二人を結び合わせていくのです。

 主イエスにはヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンという弟が、また妹もいたと福音書にあります(マルコ6:3)。その兄弟らと母マリアが訪ねてきて面会を求めたとき、主イエスはそれにすぐには応えずに21「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われました。

 この章では神の言葉が実りに向けて蒔かれていること(4節~)、18「どう聞くべきかに注意」すべきことが告げられていました。そして21「神の言葉を聞いて行う」ことこそ、神と深く連なる道であると主イエスは教えられたのです。

 主イエスは「アッバ、父よ」(マルコ14:36)と祈られました。「アッバ」は幼児語、言わば“お父ちゃん”です。同じように、私たちも主イエスに連なる家族として神を求め祈ることができるのだと、伝道者パウロは告げています(ガラテヤ 4:6)。

世界聖餐日礼拝 「ともし火を信頼して」

ルカによる福音書 8章16~18節
エレミヤ書 1章9~12節

 

 暗闇に身を置く経験をされたことがあるでしょうか。そこで灯される光は小さなものであっても、私たちを力づけてくれます。ここの16「ともし火」は18「どう聞くべきか」とあるように、11「神の言葉」のことです。

 先週開いた4節~とも重なりますが、私たちは日々どのようにみ言葉を聞いているでしょうか。東日本大震災発生直後3月13日の礼拝は、なんとか集い得たメンバーで停電の中まもりました。特別なことがなされた訳ではありませんでしたが、み言葉また聖餐のパンと杯に心が震えたことを思い起こします。

 18「持っている人は更に与えられ…」とは、み言葉をわが身に受けとめこれを生きる者は真の意味で富む者となり、これを顧みない者は乏しくなるとの意味です。エレミヤは春を察知しその訪れを告げる11「アーモンドの枝」に必ず12「成し遂げ」られる主のみ旨を見て、旧約の歴史に名を刻む預言者に立てられていきました。

 17「隠れているもので、あらわにならないものはなく…」と、16「ともし火」なるみ言葉はいくら押し止めようともそれを撥ね退けついにはすべてを照らすのだと主イエスは教えられました。希望のゴールを照らし出す16「ともし火」なるみ言葉を信頼し、力づけられて今を歩み行きたく願います。

「耕し、種蒔かれる方」

ルカによる福音書 8章4~8節
イザヤ書 28章23~29節

 

 今日開いたイザヤ28:23~は、南王国ユダが強大なアッシリアに脅かされている中で語られた預言者イザヤの言葉です。種蒔きから収穫まで順次進められる農夫の仕事は、それぞれ深い意味をもって歴史を導かれる主のみ業を表しています。目の前の危機だけに目を奪われることなく、その背後にある主のみ旨を畏れ信頼しようとイザヤは語りました。

 主イエスの語られた譬で、この農夫はえらく気前よく種を蒔くのです。結果、 5「道端」 6「石地」 7「茨の中」に落ち、実りに至らなかった種もありました。 5「種」は11「神の言葉」であり、四つの土地とはそれを受けとめる人のあり様だと主イエスご自身によって説き明かされています(11節~)。四種類の人がいるのではなく、私の中に四つの土地があるのです。

 神の言葉は 8「良い土地」に落ちるならば必ずや 8「生え出て、百倍の実を結」ぶ、と告げられています。この農夫は成長そして実りを信じて種を蒔き続け、 5「道端」 6「石地」 7「茨」の土地を 8「良い土地」にすべく苦闘して耕し続けるのです。主のみ旨とみ業はそのように今日もこの世界そしてあなたに向けて進んでいる、そのことに気づきなさいと主イエスは 8「大声で」呼びかけられています。

 

「踊りの主」

ルカによる福音書 7章31~35節
サムエル記下 6章12~22節

 

 “笛吹けども踊らず”との諺は、今日の聖書の箇所から来ています。結婚式ごっこをしようと笛を吹きお葬式ごっこをしようと歌を歌ったのに、誰も応えてくれないと子どもが嘆いているというのです。主イエスはこれが31「今の時代の人たち」のあり様だと言われています。

 洗礼者ヨハネは自らも禁欲的な生活をし、人々に悔い改めを求めました(3:3~等)。主イエスは神の国の福音を説き、人々と親しく食卓を囲みました(5:30等)。が、30「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」は批判をするだけで、耳を貸そうともしなかったのです。

 批評をするばかりで腰を上げようとしないという点では、31「今の時代」はむしろ今日の様子に重なります。自らを中心に置いてものを見、他者の喜びや痛みに共感できない冷笑的なあり様に社会も私たちも影響されてはいないかと恐れます。

 今日共にする讃美歌290の原題はLord of Dance(踊りの主)です。“私は踊った、世界が始まったその朝に、…そして天から降りてきて、地上で踊った、ベツレヘムで…”と原詞にはあります。原初の創造の業に、降誕の出来事に、主イエスの言葉と業に、世を愛する神の熱い働きかけが込められているというのです。それなのに冷笑的に通り過ぎて良いのか、神の呼びかけに応え福音に生き、その喜びに踊る者とされよう、とこの讃美歌は歌っています。

 死をも打ち破り復活を遂げられた主イエスの踊りは、全被造物がその命を祝い共に踊るまで続きます。私たちもその命を、今日を喜び、踊りの輪に加わりましょう。

9月のおたより

 過日、T兄から1枚の絵画が教会に寄贈されました。もと教会員のC姉の作品「花もようのついたオルガン」です。1985年に描かれたすてきなこの絵は翌年の河北美術展に出品され、入選受賞しています。

 描かれているのは、昨年3月の「おたより」でご紹介した1913(大正2)年製造のリードオルガンです。

 絵画は寄贈を受けて教育館階段の踊り場に設置を考えましたが、壁面の強度不足でむずかしいことがわかり、2階の「会議室A」に飾ることとなりました。ちょうどこの部屋には描かれたオルガンが修復されて設置されており、今ふたつとも然るべき場所を得たといった感じで並んでいます。

 2階に昇りにくい方もおられるので、9月16日の礼拝時に絵を礼拝堂でもご披露しました。可能な方はぜひ階段を昇って、当教会の歴史の証人でもある絵画とオルガンをご覧頂きたく思います。