「命のパン」

ヨハネによる福音書 6章30~40節
申命記 8章2~10節

 

 五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人が満たされた出来事(61~)の後、期待してついてきた人々に主イエスは27「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」35「私が命のパンである」と言われました。ここで主は何を教えられたのでしょうか。

 そうか、これは食べるパンではなくて心の充足を指しているのだ、そう考えられるかもしれません。確かに、物的には十分でも心が満たされないとの今日的課題はずいぶん以前から指摘されているとおりです。

 でも、出エジプトの民が荒野で食べた31「マンナ」(=マナ)のことが触れられています。マナが与えられたのは、「人はパンだけで生きるのではなく…主の口から出るすべての言葉によって生きることを…知らせるためであった。この四十年間の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」(申834)と語られています。民は罪に起因する試練も多く数えながらも、身も心も主に養われ支えられて約束の地に到ったのでした。

 今日祝福を受けられる高齢者の方は、このことを我が身にもふり返られるのではないでしょうか。主は私たちの心だけではなく、曲折ある生活をもそのみ旨とみ手をもって導かれるのです。35「わたしのもとに来」なさい、35「わたしを信じ」なさい、と呼びかけられています。実際に養われていても、これは一歩踏み出さなくてはわからない真実であり恵みです(30節)。35「私が命のパン」とは私を食べなさい、ということです。私たちのために命をも分け与えられた方が私たちの日々にも伴って養い導かれる、この恵みの内に歩みなさいと呼びかけられています。

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