「主の栄光を仰ぎ見る旅路」

申命記 34章1~8節
ローマの信徒への手紙 8章18~25節

 

 622日以来辿ってきた出エジプトの物語の締めくくりとして、民の荒野の旅と指導者モーセの働きの結末を見ておきましょう。

 荒野の旅は40年に及んで約束の地を望むヨルダン川東岸に至り、指導者モーセは旅を振り返る演説をしました(13)。これが申命記です。

 40年というと、古代ではほぼ一世代です。旅路がなぜこれまで長引いたのか、それは民の罪のゆえでした(民1426~)。そしてこの民を苦労して導いた指導者モーセも、約束の地に入ることはできないと主から申し渡されるのです(323~)。それは、荒野で水が必要になったとき主に命じられたようにモーセが正しく行わなかった罪の故だと説明されています(3251)。なんと厳しいことでしょう。

 この厳しさは、私たちが罪から逃れられない、限りある存在であることを指し示していることを思います。願い・目標に必ずしも達することなく、人は生涯を終えていきます。その厳しさを私たちは引き受けなければなりません。

 モーセを主は 1「ピスガの山頂」に登らせて民に与えられる約束の地を仰がせられ、これをもってモーセはその生涯を閉じたのでした。私たちは罪と有限性から逃れられない者ですが、主の憐れみともたらされたみ業によって将来に約束された栄光を仰ぎ見ることが許されています(ローマ818~)。18「現在の苦しみ」は18「将来…の栄光」によって意味づけられ、私たちの20「虚無」は、主から来る20「希望」によって照らし出されるのです。私たちの限りある旅路も、主の約束とその栄光に位置づけられていることを心に刻みたく思います。

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