平和主日礼拝 「御国が来ますように」

マタイによる福音書 6章9~13節
詩編 102編1~19節

 

 宮田光雄先生(東北大学名誉教授)は1983年ナチスの強制収容所を訪ねられ、そこでの思索を『アウシュヴィッツで考えたこと』(みすず書房)に纏められました。

 ナチスによる大量虐殺を指す“ホロコースト”は元来聖書に現れる“燔祭”を意味する語であったことを指摘した上で、先生は“アウシュヴィッツ以降、なお人間は祈り得るか”との神学者の言葉を取り上げておられます。それは、おびただしい人間を焼き尽くしていった恐るべき罪を目の当たりにしてなお神をまた人間を語り得るか、との問いです。

 別の章で先生は、ナチスに抵抗してブーヒェンヴァルト収容所に囚われたP.シュナイダー牧師を紹介しています。ナチスの旗への敬礼を拒んだ牧師は狭い独房に閉じ込められ、そこからなお聖書の言葉を発し続けました。13ヶ月後牧師はついに獄死に到りますが、その間家族に送られた手紙には“独房の中は狭い、しかし聖書は広い”と記され、独房の窓から見える一本の木のスケッチには“…木が私に語りかける…やがて訪れる春に向かって希望に満ちているようだ…”と添えられていたのでした。

 先生は重い問いと共に、収容所の中からなお祈りは発せられていた事実を紹介しています。背信を重ねる人間は罪という独房に囚われているかのようにも思います。でもなお、18「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られ」ないと聖書は語ります。この招きに与り、10「御国が来ますように」と祈り続ける者でありたく願います。

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