「わたしが帰ってくるまで」

ルカによる福音書 19章11~27節
申命記 29章9~14節

 

 このとき主イエスがおられた 1「エリコ」は都エルサレムまで、一日路ほどの町です。主イエスが都で救い主として王の座に就きすぐにでも11「神の国」を打ち立てられることを期待していた人々に、主イエスはその旅路はまだ12「遠い」ことを譬で語られました。11「神の国」をもたらすため、主イエスはこのときご自身の十字架を目指して進んでおられたのです。

 成し遂げられた十字架と復活によって11「神の国」は約束され、私たちはその恵みと喜びを仰ぐことができます。がそれは目に見えるような仕方で明らかにはなっておらず、私たちは種々の課題にも直面します。

 このとき語られた13「ムナ」の譬はタラントンの譬(マタイ25:14~)と似ているようで、内容は異なっています。10人に平等に預けられた16・18・20「一ムナ」とは、主イエスが13「帰って来るまで」頼りにすべく与えられた神の言葉を意味しているのではないでしょうか。神の言葉は信頼して生かすならば10倍5倍(16・18節)の恵みをもたらすのであり、それを生かさずに20「しまってお」くことは大変残念なことだと教えられています。

 旧約で、先週と同じ箇所を開きました。モーセが出エジプトの民に改めて神の前での決意を問うたのは、もはや彼は約束の地に同行できず、民はかの地で神との契約・その言葉を頼りに道を選びとって生きていかねばならないからです(4:21~)。同じ決意は、神の国を確立すべく主イエスが帰って来られるのを待ちつつ生きる私たちにも求められています。

 今年の2.11宮城集会の案内が出来上がりました。現実世界の平和をどのように求めるのかは、聖書に直接書かれてはいません。でも神の言葉を心の内に20「しまってお」くことは残念だ、と主は言われるのです。こうしたいわば応用問題にどのように答え、今を歩んでいくかが、私たちに問われていましょう。

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