「主の祭りは我々全員のもの」

出エジプト記 10章1~11節
マルコによる福音書 5章11~20節

 

 主によって出エジプトの指導者に召されたモーセは、イスラエルの民をこの国から去らせよとファラオに迫りました。が、民を奴隷として追い使っていた王がこれを許すことはありませんでした。

 モーセは主のみ業を顕し、数々の災いをエジプトにもたらしました(714~)が、ファラオの心は頑ななままでした。主に支えられたモーセの力強さは示した業もさることながら、 8「行って、あなたたちの神、主に仕えるがよい。誰と誰が行くのか。」 9「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」とのファラオとのやり取りに示されています。どのくらい役に立つかという観点でファラオが人を選別しようとしたのに対し(1124節)、老いも若きもすべての人は主の祝福の内に置かれていることをモーセは宣言したのです。

 ナチス・ドイツは人種主義と優生思想に立ち、同性愛者・障害者ら、そしてユダヤ人を虐殺したことで知られます。が、病院・施設を持ち19世紀から障害者の町として知られるべーテルでは、施設長・牧師らが“生きるに値しない生命などない”と最後まで抵抗を続けたのでした。能力・生産性で人を計る傾向は特に戦時下に正当化されます。今、奇妙な解釈改憲で“戦争のできる国”になろうとしている日本に生きる私たちは、私たちの生の根拠がどこにあるのかをしっかりふり返るべきです。モーセの宣言の系譜を受け継ぎ、教会には子どもから高齢者までが集っています。当たり前のことに思えるこのことに、豊かさと私たちが疎かにしてはならない基礎があることを心に刻みたく思います。

 ファラオの頑なな罪は、ついにすべての初子の死という悲劇を招きました(1229~)。命を人の力で支配しようとの愚かさは、大きな祝福を呪いへと変えてしまうとの指摘がここにあることを思います(申1126)。

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