イースター礼拝 「右側に網を打ちなさい」

ヨハネによる福音書 21章1~14節
詩編 121編1~8節

 

 今日開いたヨハネ21章は前章で完結したと思われる福音書に補遺のように続けられており、何故かと不思議に思います。前章には、復活をもって死を打ち破られた主の勝利が記されています。が、その復活はこの私の生にどう関わるのでしょう。そのことがこの21章で指し示されているように思います。

 舞台は都エルサレムから、弟子たちの生活の場であったガリラヤに移動しています。ペトロもトマスも他の弟子たちも喜びの内に復活の主に出会い平和を告げられたはずなのに(202128)、 3「わたしは漁に行く」 3「わたしたちも一緒に行こう」との言葉には落胆や疲れのようなものを感じます。さらに漕ぎ出て漁に向かっても、 3「何もとれなかった」のです。これは生活の中で時に元気を失い、落胆を覚える私たちの姿ではないでしょうか。主に従いゆこうと決意した信仰者も、起伏ある日常を歩む中で時に挫折を経験するのです。

 そこに復活の主はすでにおられました。弟子たちは気づいていませんでしたが、主は彼らの生活の場に来られ、大声で呼びかけられ、具体的な仕方で導かれるのです。主が自ら12「朝の食事」へと誘われたことも印象的です。夜通し働く漁師にとっての朝食は、欠乏を補い再び歩み出すエネルギーを満たす大切なものでした。もはや12「あなたはどなたですか」と問いかけはしなかったというのは、日々の欠乏・疲れ・挫折を復活の主がご存じの上で、その欠けを満たし導かれることを彼らが噛みしめ、心に刻んだということではなかったか、そう思うのです。

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