「真に権威あるもの」

ルカによる福音書 20章1~8節
イザヤ書 9章5~6節

 

 祭司長・律法学者・長老たちは、エルサレム神殿の境内で多くの民衆に教えておられた主イエスに対し、 2「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いました。彼らはユダヤ教・社会の指導者としてそれぞれ選任を受けた者たちであり、それに比してお前は何だと詰問したのです。が、主イエスの反問に対し人間的な打算しかできず、彼らの 2「権威」はたちまち色あせたのでした。

 2「権威」との原語は、面白いことに“自由”と訳すこともできます。H.C.アンデルセンの“裸の王様”では、王様も家来も人々も体面を気にして口をつぐむ中、真実の口火を切ったのは子どもでした。主イエスの権威は、まったくの自由から、世と生きる者を愛するがゆえに自ら十字架へと歩まれたことに示されています(22:39~、フィリピ2:6~)。でもその主の権威は、人々にもまた弟子たちにもこのとき見えていませんでした。

 私たちは何を信頼し、何を尊いこととして歩むのでしょう。主イエスは「人の命は財産によってどうすることもできない」(12:15)と教えられました。命の重さは、財産や地位によって計ることはできず、また能力や評価によっても計り得ません。神から与えられた命はそれ自らが重さを湛えており、主イエスは人々の命のあるべき祝福のために、十字架へと進まれたのです。

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