東北教区東日本大震災2周年記念礼拝

イザヤ書 42章1~9節
ルカによる福音書 7章18~23節

 

 東日本大震災発生より2年目の日に、あのときの体験・刻んできた思いを携えつつ、共々に主の前に立ちたく思います。

 震災発生2日後のレント第1主日、礼拝堂のガラスが砕け落ちていたため幼稚園ホールでまもった私どもの教会の礼拝にはいつもの約半数のメンバーが集まり、心細い中にも祈りました。連絡のつかないメンバーが心配で、“主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共に”との祝祷に、“今思いうかべる一人一人と共にあるように”との言葉がつけ加わりました。その後、ほとんどの方の無事が確認できましたが、海近くにお住まいの姉妹の消息がつかめず、翌週もその翌週も“今思い浮かべる一人一人と共に”と、皆で祈りをあわせました。

 この姉妹が津波に遭い召天されていたことは6月に判明し、お葬式を執り行いました。その後も、“今思い浮かべる一人一人と共に”との言葉を外すことができず、今に至っています。思い浮かべるのは、天の姉妹であったり療養中の方であったり、その時またそれぞれにおいて異なりますが、礼拝において私たちは誰かのことを祈ることができるし、そのように導かれていることをあの震災より知らされました。

 震災発生より2年、失われ断ち切られたままの多くのものがあり、懸命に取り戻されてきた沢山のものがあります。これらはいずれも忘れてはならないものです。そして一方、困難な震災の只中から新たに起こされてきたものもあるのではないでしょうか。それは、日本・世界各地から寄せられる祈りと助力であり、幅広い協力であり、平和と共生をめざす気づきなどです。

 B.C.6世紀、亡国と荒廃にあった民に、主は預言者の口を通して「見よ、…新しいことをわたしは告げよう」、この荒廃にも新しいものが「芽生えてくる」と語られました(イザヤ42:9)。今日にも主から与えられるこの希望に目をとめたいし、私たちはすでにその一端に触れ与っていることを思います。

 震災報告に出かけた京都教区研修会の礼拝で、ある牧師から“地震を地震のままに、津波を津波のままに、事故を事故のままにしておいてよいのか”との問いかけを頂きました。とてつもない中にも必ず新しいことを起こされる主のみ業に目を向けよう、私たちも従おうとの呼びかけであったと思います。一昨年の教区の集いで田中優さん(NPO未来バンク理事長)は、あの痛恨の原発事故を私たちはよりよき環境を未来に残すための転換点としなければと語られました。昨日、私どもの教会では、被災者支援センターエマオで震災に向き合ってきた一人の青年が洗礼を受けました。主は、地震を津波を事故をそのままにはなさらず、新しいことを起こし給います。

 なお道のりは長いでしょう。でも「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことな」い主の業は、ついには「裁きを導き出して、確かなものとする」のです(イザヤ42:3)。従う一歩一歩の奉仕をも、主はご用のために用いてくださるでしょう。

 洗礼者ヨハネが使いを送って、“救いの実現はいつでしょうか、まだ「待たなければなりませんか」”と訊ねたとき、困難な中にも小さな一人が助け起こされているならば、神の国の救いはすでに訪れているのだと主イエスは答えられました(ルカ7:18~)。これは私たちが「見聞き」していることでもあります。震災発生2年の今にも生きて働き、新しいことを起こし、み業を進められる主を私たちは仰ぎ、従って行きたい、そう願います。

 

(2013年3月11日 仙台東一番丁教会にて)

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