クリスマス礼拝 「その独り子をお与えになったほどに」

マタイによる福音書 1章18~25節
イザヤ書 43章1~7節

 ヨハネ3:16は、“聖書の中の聖書”とか“小さな聖書”と呼ばれます。それは福音全体を一言で言い表した言葉だからです。今日はその節の一部を説教題としました。

 このヨハネ福音書で「世」とは、罪に支配され繰り返し神の御旨を拒み続けるものとして描かれています(1:10、3:19等)。本当に大切なものに耳をふさぎ目を閉ざして傷つけあっている有り様は、旧約の昔も(イザヤ42:18~)今日も異なるところがありません。その愚かさは、歴史に大きな憂いを招くことになると警告されています(同42:25)。

 御旨を拒み愚かさを重ねる世とそこに生きる者、にも拘らず主はこれをなお 4「値高く、貴」いと言われるのです。 3「代償」を払ってでも 1「贖」うと語られているところに、この言葉の背後に主の強い意志があることがわかります。この主の意思が究極的に実現したのが、クリスマスの出来事でした。神自らが23「我々と共に」あるために、そしてついにはその生命をも注ぎ出すために「世」に来られたのです。

 韓国で生まれたゴスペルソング“君は愛されるために生まれた”は、“永遠の神の愛は、我らの出会いの中で実を結ぶ。君の存在が私には、どれほど大きな喜びでしょう。”と歌います。世と私たちは破れを抱えながらも愛されるべく存在しているとのこの呼びかけに耳を向けてその幸いを受けとめると共に、互いがそうした重さを湛えた一人一人であることに目を向けて歩みたく願います。

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