「その時を待ち望む」

ルカによる福音書 1章39~45節
イザヤ書 8章16~23節

  

 臨床哲学者の鷲田清一氏(元・大阪大学総長)は著書『「待つ」ということ』(角川選書)で、現代人が “待つ”という生きる上で大切な感覚を失いつつあることを指摘しています。プロジェクト・プログラム・プロダクション(生産)…など、pro(先に・予め)といった接頭語を有した言葉が重用されていることにもすべてが前のめりな今日の有り様が現れているとの指摘には、この課題の根の深さを思わされました。

  今日から始まるアドベント(待降節)は、クリスマスの主の降誕とその主による歴史の完成の二つを待ち望む時です。今日開いたイザヤ8:16~にもあるように、聖書は17「待ち望む」ことの大切さを繰り返し語ります。主こそが歴史の主であり、その前に人間は謙虚であるべきだからです。

  2006年の教育基本法改正で、“(日本国憲法の)理想の実現は…教育の力にまつべきものである”との言葉が削られたことを知りました。日本基督教団は信仰告白・教憲前文・成立の沿革において“主の来たりたもうことを待ち望む”“御霊のたもう一致”と掲げつつも、人間の力による性急な一致を今日求めているのではないかと危惧します。

 主イエスと洗礼者ヨハネをそれぞれお腹に宿したマリアとエリサベトが出会ったとき、41「胎内の子」は踊り、二人は喜びを分かち合いました。わが子を宿したお母さんは、待つことの意味を知っています。この箇所は、主の降誕そして主のわざを待つことの大切さを語りかけているように思います。

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