「神の作品」

エフェソの信徒への手紙 2章1~4節
イザヤ書 46章1~7節

 

 今日開いた10節は、口語訳では「わたしたちは神の作品であって」とあります。「作品」には作り手の思いが込められているのであって、私たちは神の意思・期待を頂いてここにあるのだと呼びかけられているのです。

 イザヤ46章には、人間が神を造ってこれを拝むという偶像崇拝の愚かさが指摘されています。かしづきつつもそこで崇められ求められているのは人間の願望であって、それは自己中心の一変形に過ぎないからです。

 自己中心の生き方は 2「世」の諸力に絡め取られやすく、やがては 2「欲望」に支配されてしまうことが指摘されています(1~3節)。偶像崇拝とは目に見える像を拝むことにとどまらず、人間の願望を崇める過ちを指します。この警告に今日の私たちまた世界はなお耳を傾ける必要があるでしょう。

 豊穣多産を約束する女神アルテミスが崇められていたエフェソで、初代キリスト者たちはわが身に寄せられている真の神のみ旨を尋ね歩む生き方があることを証ししました。本日もボランティアに来られた敬和生が出席しています。この学校でよく語られる“自分探し”とは、神の期待と自らの願いの交わる点を求めることのように思います。

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