「焼いた魚」

ルカによる福音書 24章36~49節
創世記 1章27~31節

 

 今日の説教題に違和感を覚えられた方もあるかもしれません。でも、聖書中こことヨハネ21:9の主イエスの復活の場面にしか出てこない42「焼いた魚」にもメッセージが込められています。それは、主イエスが39「亡霊」などではなく、39「肉も骨も」も具えた完全な身体をもって復活されたことです。

 ギリシャ思想において身体とは、不滅なる霊魂を閉じ込める価値低いものでした。一方、新約聖書は罪に支配された身体は朽ちるよりないものとしながらも(Ⅰコリント15:50等)、キリストの罪の贖いと復活に与った身体は神の栄光を顕すことができると語るのです(同6:13~20等)。

 主イエスは傷ついた者に触れ、その悲しみに涙し、共に食べるためにその身体を用いられ、ついにはその肉と血によって私たちの贖いを成し遂げられました。神と隣人への愛のためにその身体を用いて神の栄光を顕された主は、従う道へと私たちを召しておられるのです。

 42「焼いた魚」は、この主の復活の勝利とその贖いを告げるものでした。いっぽう笑いと喜びではなく疑いをもってしか物を食せない時代を来たらせるとは、私たちは何ということをしてしまったのでしょう。罪の身体を贖われた主イエスの救いが、この世界をも罪から救い出してくださることを求めるばかりです。

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