「隅の親石となった」

ルカによる福音書 20章9~19節
詩編 118編22~25節

 

 9「ぶどう」は荒地に実りをもたらす作物であり、 9「ぶどう園」とは神の祝福を受けたこの世界を表しています(イザヤ5章)。従って13「主人」とは主なる神であり、私たちはこの世界なる 9「ぶどう園」を預かっている 9「農夫」ではないか、と語られています。

 9「農夫たち」は13「主人」から正しい管理とよき実りを期待されていました(創1:26~31)。ところが、送られた10・11・12「僕」たちを排斥し、13「愛する息子」を殺してしまうのです。14「そうすれば…我々のものになる」との言葉は、あのバベルの塔を建てて神に成り代わろうとした罪の姿そのものです(創11:4)。

 話の余りの展開に 1「民衆」は16「そんなことがあってはなりません」と応えましたが、その彼らを主イエスは17「見つめ」られました。数日後の主イエスの捕縛に際し、彼らが「その男を殺せ」「十字架につけろ」と叫ぶのです(23:18・21)。

 ここで主イエスが語られた17「隅の親石」とはもともと、亡国・バビロン捕囚を辿った無用の石ころのような民イスラエルを世界の祝福の基とされた驚くべき神のみ業を賛美する言葉です(詩118:22~、イザヤ28:16~)。主イエスはご自身に迫る十字架に、人間の罪の深さと共に、それをも貫いて救いへと導かれる神のみ業を見つめておられたのです。

 主は今日の世界と私たちをも17「見つめ」られていましょう。それは時代と私たちの愚かさを見通す眼差しであり、それでもなおこれを捨てず平和と祝福へと導こうとされる慈しみの眼差しです。私たちはどう応え得るでしょう。

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