「反省する前に愛を知ろう」

マタイによる福音書 18章21~35節

説教  栗原 健 兄 (宮城学院大学准教授)

 

 私たちは「悔い改め」と「反省」を混同しがちです。本当の悔い改めとは何でしょうか。ヒントとなる言葉があります。「愛のない赦しはない。和解とは、罪を犯した人が身を低くした結果ではなく、二人の人間の出会いである。」(G・グティエレス)。この「和解」は「悔い改め」にも言い換えられます。愛である神に出会い直すことが悔い改めであり、反省はその一部だけなのです。

 今日の物語を読むと、私たちは“この家来のように、私も神に対して莫大な負い目(罪)がある。けれども、神は主の十字架を通じて私の負い目を赦して下さった。だから私も人を赦さなくては。反省ッ!”と考えるのが普通です。しかし、この話はもっと深く読み込むべきです。主イエスのたとえ話にはしばしば、当時の人にとって“なんでやねん!”と突っ込みたくなるような部分が含まれています。この物語にある“なんでやねん!”はどこでしょうか。家来の無神経さでしょうか。そうではなく、王が借金を棒引きしたことです。

 1万タラントン(6千億円)を失うことは大変な痛みです。にもかかわらず王が赦したのは、どのような宝よりもこの家来のことを大切に思い、そばにいてほしいと思ったからです。王が怒ったのは、自分の愛が理解されずにむげに扱われた悲しみのためなのです。

 主イエスの十字架と復活が示すように、神は私たち一人ひとりのことをも、どんな犠牲を払ってでも自分の傍にいていてほしいと願うような、大切な存在として見て下さっています。神にそこまで愛されているから、私たちも過去の痛みを手放そうという心になれるのです。他の人が自分に与えた傷は確かに苦しいものだった。けれども、そうした傷が私という人間を決めるのではない。これほどまで神に受け入れられているということが、私が誰であるかを決めるのだ。だからこの痛みを手放しても自分は大丈夫だ、22「七の七十倍」でもやり直せる。そう信じることができるのです。神の愛に出会い直して新たな道に進む、この悔い改めの道に生きて行きましょう。

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