「わたしたちは知っている」

創世記 44章18節~45章3節
ローマの信徒への手紙 5章1~11節

 

 今日開いた18~34節は、兄たちが2度目にエジプトを訪れた際のユダの嘆願の言葉です。先に持ち帰った穀物は底をついてしまい、再びの買い付けが必要となりました。ですがその際は、末の弟ベニヤミンを同行させるのが約束だったのです(43:1~)。ヨセフに代わってベニヤミンを溺愛し渋るヤコブを、「わたしが保証します。その責任をわたしに負わせてください」(43:9)と説得したのがユダでした。

 エジプトに赴いた弟ベニヤミンと再会しヨセフは涙しつつも(43:30)、或る企てをします。弟が盗みを働いたとの嫌疑をかけ、奴隷として捕え置くと迫ったのです(44:1~17)。ユダは許しを乞い、33「この子の代わりに、この僕を…奴隷として」くださいと願ったのでした。

 あのとき、父の偏愛を受けるヨセフを憎んでエジプトに売り飛ばしたのがこのユダでした(37:26)。その彼が弟の安全を保障し、そのためには自ら身代わりになろうと言ったのです。この背後には、先週見た兄たちの悔い改めがありました(42:21~22)。22年の時を経て、彼らも変わったのです。この兄の言葉にヨセフはもはや耐えきれず 1「身を明かし」、兄弟はついに和解を果たしたのでした。

 併せ開いた箇所で伝道者パウロは、キリストの犠牲にあってもたらされた 1「平和」10「和解」について高らかに語っています。神の身分から人へ、さらには十字架の死へと、思えば大きく変わられたのは 1「主イエス・キリスト」にほかなりません。それは私たちの救いのためでした。この方こそ 2「希望」であり生の根拠であると 3「わたしたちは知っている」、こう呼びかけられています。

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